第2話 神様は木から飛び降りる

「お母さんはね、ガンなの」


 当時十歳だった私にとって、その言葉は意外過ぎた。

 何か良くないことがあるのかもしれない、でもきっと何とかなるんだろう、そんな風に思っていた私は、その後現実を突きつけられることになる。


「余命は半年、長くても一年だって」


 その一年後、お母さんは入院した。父さんは私たち兄妹にこう言った。


「たぶんもう退院することは無いと思っててな」


 それからは早かった。

 痛みを抑えるための鎮静剤の量は次第に多くなり、私たちを認識するのもやっとになっていった。それでも私は信じていた、きっと辛いのは今だけ、いつかきっと母さんは元気になると。家に帰って来たときはみんなでお祝いしようと、そう思っていた。


 その後まもなく母さんは息を引き取った。

 最期の言葉は今でも覚えている、その痩せこけた頬に笑顔を浮かべて、

「ありがとうね」

 やっとのことで細々と声を絞り出していた。

 私はその恐ろしい程に澄んだ笑顔に違和感があった。


 四十歳という若さ、志半ばでこの世を去った母。もっと色々したかったこともあったはず。そんな母がなぜあそこまで澄んだ笑顔を作れたのか。何か私の知らない事実があったのか、それとも私たちを不安にさせまいと、一生懸命だったのか、私は後者だと自分を納得させた。


「よし、じゃあ次行こうか」

 ふと沈黙を破った父の言うその「次」とは天元神社のことである。いつもお墓参りの後は必ず天元神社に寄ることにしている。

 天元神社までは徒歩2,3分でたどり着く。絶対に行かなければいけないわけではない。ただ帰り道にそのそばを通りながらも、何もしないで帰るのもどうも決まりが悪いから、寄ることにしている。

 まあ、寄ると言っても私だけは意味合いがちょっと違うけど。


「おーい、美緒!」


 父さんと兄が賽銭箱の前で待っている。でも私だけは少し離れたベンチで座っていた。

「みお~、お前まだひきずってんの?」

 ダメ兄貴が甘ったるい声をかけた。

「もういい加減、許してあげたら〜?」

 その許すという響きに少し私はむっときた。

「だから……そんなんじゃないって」

「じゃあいつまでそうやって意地張ってんだよ」


 分かってる。私だっていつまでこんなことを続ければいいのか分からない。でももう後戻りはできない。私は神様を信じない、だから絶対に「あそこ」には行かない、絶対に。

 父さんが寄って来た、そして私の顔を覗き込む。

「美緒、帰ろうか、寒くなってきたし風邪ひくぞ?」

 私はうついむいていた。

 ただそのベンチにうずくまっていたのは、なにも寒さから身を守るためだけではなかった。意地を張りながら、うつむきながら、あの頃のことを思い出していた。


(神様なんて、いないんだ)


 私は母さんが入院してから、毎日かかさずここに来ていた。母さんの体調が良くなりますように、病気が治りますように。雨の日もびしょ濡れになりながらも、時に忘れそうになって、夜中にパジャマから着替えてお参りに来た事もある。


 でも母さんは死んだ、この私をおいて。


 何故神様は私から母さんを奪ったんだろう? どうしてこんなに辛い思いをさせるの? 一体私たちにどんな恨みがあってこんなことをするの?

 あの日以降、神様を信じていた私は死んだ、そしてその亡骸がもう二度と浮かんでこないよう、上から重い蓋をした。


 ふと顔を上げると、父さんと兄はもういなくなっていた。空はすっかりと濃い藍色が一面を占め、思い出したかのように外灯の電気が点いた。その灯りで浮かび上がる、葉っぱを失った木々たちが、少し寂しそうにその枝を揺らしていた。時折吹きすさぶ、ぴゅう、という寒そうな音に、思わず体が震えた。

  夜の寂しい神社、もうここには用は無い、そう思った時だった。


 どこからともなく、しゃがれた声が届いてきた。

「おーい、そこのお嬢ちゃん」

 思わず辺りを見回した。見渡す限り、人っ子一人見当たらない。

 あるとすれば冬の風の音くらい。人の気配など全くと言っていいほど無かった。


 気のせいか、そう思った次の瞬間、


「ここだよ、ここ」


 えっ?

 ふと見上げると、傍にそびえ立つ楠の大木のはるか上、その枝で何かが動くのが見えた。

「ちょっと、そこ行っていいか?」

 私の返事を聞く前に、その枝の上の何かは飛び降りた。

 どすん。それなりの衝撃が走った。

 飛び降りたの?


 い、たたた。

 そういいながら、その人影はしゃがんだ体制から何とか体を起こした。よれよれのシャツに、臙脂えんじ色のステテコ。うっすらと白鬚を生やしたその人物は、突然私の前に現れた。


「あなた、だれ?」


 するとその人物は力強く眉にしわをよせた。

「おい、バカ! 何言ってるんだよ、俺だよ、俺。か・み・さ・ま!」


 私は思った。

 辺りは暗くなってきているし、こういう人たちが元気になってくる時間帯だ。早くこの場から逃げたほうがいい。面倒なことに巻き込まれるのは御免だ。そんな私の思考にも全く気付かず、その老人は続ける。


「最近はよ、信心深さが失われていかんな、どんどんお参りに来る人が減っちまってよ。時々来たかと思ったら、女紹介しろだとか、金くれとかそんなもんばかり。まったく世の中どうなっちまったんだろうね」

 ゆっくりを後ずさりで2、3歩下がり、私はすぐさま老人に背を向けると早歩きでその場を逃げ出した。

「おい、ちょっと待てっておい」

 そんな言葉をかわしながら、私が走り出そうとしたその時、

「おい、いいのか? 俺は手伝いにきてやったんだぞ?」


 なに、ちょっと止めて欲しいんだけど。私も変人だと思われる。


「言っておくけどな、これは全部、あんたの母さんが望んだ事なんだぜ?」


 私の足が止まった。


 何だって? 今あの人はなんて言った?

 私は思わず振り向くと、そこにはもう静寂しか残っていなかった。先ほどのベンチにも、その向こうの神社にも、人影らしい人影は残っていなかった。ただ一つ、その言葉だけを残して。


『母さんが望んだ事なんだぜ』


 母さんが望んだ事? この現実が?

 時が止まった。

 寒々としたこの季節、紫色の空の下、凍えることすら忘れさせ、私をその場に立ち尽くさせるには十分なほど、その言葉は強い衝撃を持っていた。

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