碧のぬくもり

木沢 真流

第1話 神様はいない

 私は神様を信じない。

 

 そう思う理由は少なくとも10個位はある、まず一つ目はこれだ。

「え、うそ。八時五分?」

 ベッドから飛び上がった私は、直ちに一階に駆け下りた。


(もう、何で起こしてくれなかったわけ?)


 ダイニングの扉を勢いよく開けると、バタン、とガラスが割れてしまいそうな音が家中に響き渡った。キッチンの前にはいつもの後ろ姿が立っている。額にタオルでハチマキ、楽しげなそのシルエットからは今にも鼻歌が聞こえて来そう。いつだってあの人の周囲だけは時空の流れがゆるやかだ。


「おぉ、美緒。起きたか。なかなか降りてこないから心配したぞ」


 私はそんな父の声を敢えて右から左に流した。


(分かってたんなら、なんで起こしてくれないのよ)


 まあ起こしに来たら来たでどうせ無視か怒ってただけだけど。

 急いで椅子に座ると、テーブルの上の朝食を掻き入れた。どれだけ急いでても、スクランブルエッグだけは食べることにしている。そんなに時間もかからないし、母さんもよく言ってた、卵には栄養素がたっぷりなんだから、と。

 ふと時計を見てみた、あと十分——八時半までに中学校に着くにはちょうどぎりぎりの時間。


「美緒、あまり慌てるな。慌てる者は藁をもつかむ、っていうからな」


 者じゃなくて者だし。悪いけど今の私にそんな父さんの誤りにつきあっている時間は無いの。


「あれ? ブレザーは? 何で無いの……」


 そこらの洗濯物をあさっても、どうしても出てこない。


「何? ブラジャー? 美緒のブラジャーなら、そこに置きっぱなしだったから、タンスに入れといたぞ」

 私の顔から血の気が引いた。

 ブラジャー? 起きっぱなし? 入れといた? しかもこの人が?


 最低。

 私が神様を信じない理由がまた一つ増えた。


 ボサボサに乱れた髪を振り乱しながら、洗面台へ駆けつけた私の視界に大きな塊が立ちはだかった。その塊は一生懸命鏡を見ながら、何度も何度も髪型をセットして、ドヤ顏をする。正直キモい。そしてこっちを見てきた。


「みお〜、また遅刻か? そんなことしてると母さんにまたどやされるぞ」


 お前こそ鏡見てる暇があったら、早く高校へ行け! 高校ってそんなに自由でフリーダムなところなの? まったく。


 私が神様を信じない理由の2つ目はこれ、女々しい兄貴。


「もう、ちょっとどいてくれない?」

 何とかお尻でその塊を追いやると、やっと洗面台にスペースが出来た。

 あぁ、これもう絶対無理だ、また保Tやすてぃーに放課後呼び出されるわ、それだけはお願いだから勘弁を。

 そんなはかない願いも虚しく、数時間後、私の予想は見事に的中することになる。


 学校のチャイムが鳴り響く。

 教室はみんな楽しそうな笑顔ばかり。それもそのはず、今日このチャイムが鳴れば2学期は終了。今から楽しい冬休み、のはず。普通の人はね。

「おい、杉山」

 ほら来た、保Tやすてぃーの偉そうな声。体育を教えてるだけあって、声は相変わらず力強い、そして内容は大体うざい。

 どうせまた今朝の遅刻のことこっぴどくしかって、来年からは気を引き締めるようにとか何とか言ってまたこの……、


「後で、進路相談室に来るように」


 えっ? どういうこと? 遅刻のことじゃないの? 私に思い当たる節は全く無かった。


「杉山、どうした。お前だけだぞ、進路希望出してないの」

 進路相談室は教室からは少し離れた所にある。それなりに深刻な話をすることが多いからだ、と聞いたことがある。そんな静かな部屋に私は保Tやすてぃーと二人押し込まれた。テーブルの上には先日配られた進路に関する参考資料が置かれていた。 

「そんな、進路、進路って言われたって。私まだ中2だし」

 保田先生、と呼んだ事はない。入学以来みんなが呼んでいる保T以外の名でこの人を認識したことはない。熱血なことに誇りを持ってるぽいんだけど、いつもどこか空回り感が否めない。保Tはあからさまに大きなため息をついた、臭そう、緑っぽい色が私には見える。

「おいおい、中学生だからこそ、考えておくんだろ? 何かあるだろう、ほら事務職とか、デザイナーとか」

 あーあ、今頃ミキ達は駅前のカラオケとかにもう行っちゃってるんだろうな、本当は私もそこにいるはずだったのに、なんて事を考えると、保Tやすてぃーの話は一向に耳に入らない。

 いくら熱気で押しかけても私には響かないことが分かっているのだろう、保Tやすてぃーは呆れた表情を浮かべると机に両手をつき、顔をにゅっと近づけた。明らかに苛立っている。

「言っておくけどな、適当にうまくやっていればきっといつか結婚出来て何とかなるなんて思ったら大間違いだからな! 年明け一番に持って来い、いいな?」


 っていうか、いつか結婚とか、そこまで考えてないし。しかもそれってかなり失礼じゃない?


 結局私は保Tの不愉快な発言に気を悪くしただけでなく、直後にミキに送ったメールももう解散後だったと聞き、より一層げんなりした。その足でそのまま家に帰るしか無かった。


 あーあ、何でこんな事ばっかり続くんだろう。


 私が神様を信じない理由3つ目、冴えない毎日。


 丁度私が家に着く頃、父さんと兄が家を出るところだった。

「お、美緒、ちょうどいいところに来た。母さんのところに行こうか」

 私は黙ったまま、何となく二人についていった。

 父さんとはあまり喋っていない、というより何て喋ったらいいのかよく分からない。色々やってくれるのはありがたいことなんだけど、自分でもどうしたら良いのか分からない。

 母さんのところには、いつも土手を歩いて行くことにしている。

 こんな寒い中でも、河川敷では少年野球の元気な声が飛び交っていた。彼らは寒さを知らないのだろうか、それとも寒いのが好きなだけ? ドM集団? まあどっちでもいいんだけど。

 びゅう、という音とともに突然、灰色の冬風が私の頬を殴った。反射的に思わず首をコートに埋める、まるで亀の首みたいに。もうこのまま全部埋もれられたらきっと暖かいのにな、なんて馬鹿なことを考えてみる。


「みお〜、今日どうせ保Tに怒鳴られたんだろう? あいつ遅刻とかそういうのうるさいからな〜」

 私はその腫れ物を鷲掴みにする兄のたるい言葉に、思わず寒さも忘れて首を出した。

「は? うるさい! そっちこそ毎朝あんな悠長に鏡見て前髪いじってたりして、遅刻しないわけ?」

 ほんっと、無神経も甚だしい。どこかの石につまずいて転んじゃえばいいのに。そのまま鼻血が大量にでて、そのまま出血多量にでもなれば少しは静かになるだろうに。


 やっぱり、きっとこの世に神様はいない。昔はいたかもしれない、少なくとも今はいない。

 父さんは相変わらず、はははは、と笑いながらどこか遠くを眺めている。


「いいんだよ、洋之。美緒は美緒、洋之は洋之、みんな違ってみんな良い」


 何かそれっぽくうまくまとめたつもりでドヤ顔する、この父親もやっぱりちょっと理解出来ない。

 結局何一つ会話も成り立たないまま、いつの間にか私たちは母さんのところに着いた。


「母さん、洋之と美緒連れてきたよ、今年最後になるね、きっと」

 私が神様を信じない理由は……何個まで言ったかもう忘れた。でもこれだけは言える。一番の理由はこれ。

 私たちは途中のフラワーショップ「Fleurフルール」で買ったお花を、墓石の前に供えた。母の好きだったカーネーション、花言葉は「母への愛」。寒さに弱いカーネーションにはきっと酷な季節かも。

 私は母さんの前にしゃがみこみ、手を合わせ、目を閉じた。この時間が唯一私と母さんが繋がれる時間、素直な心で母さんに語りかけてみる、と思っている横で雑音が入った。


「母さん、来年は彼女出来ますように!」


 相変わらずダメ兄貴は母さんを願掛けの神様か何かと勘違いしている。母さん、お願いだから兄を殴ってちょうだい。


 母さん。

 母さんがいてくれたら——何度私はそう思っただろうか。


 着ていく服の事だって相談したい、気になる男子の話だってしたい。進路の事だってそう、母さんに聞きたいことはたくさんある。なのに……。


 大事な時に母さんはいない。

 いつでも私の隣はぽっかりと大きな穴が空いている。

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