第2話 湖の家

 降りしきる雨の中、ブリチェスター北部の道を一台の馬車が駆け抜ける。揺れに揺れるその馬車の中で男装の探偵達は会議を行っていた。

「ちょっとジジ!あんた運転が荒っぽいわよ!酔ってるんじゃないでしょうね!」

 その中でも一際小さい少女が御者に向かって文句を垂れる。

「あーあー、わかってんよ。大丈夫だっての。つーか俺に対しては口調まで変わんのかよ……。ところで探偵さんよぉ!」

「ん?なんだい?」

「俺ぁずっと気になってたんだが、話を聞いた限りだとその友人さんはもうそこに住む気はねぇんだろ?」

 これにはドレイク夫人が答える。

「ええ、彼女はこんなところもう懲り懲りだと言っていましたよ」

「そんならわざわざそこまで行くこたぁねぇんじゃねぇか?なにか解決しなきゃいけねぇことがあるんなら別だが……」

「ああ、全くもってそのとおりだな。もちろん行くのには意味があるんだ」

「ほぅ……で?その意味ってなんなんだ?」

「簡単なことだよ。僕が興味があるからだ。それに、本当にゾンビがいるのだとしたらこれから事件が起こる可能性もある。その時のために事前調査もしておきたいからね」

「なるほどな。腑には落ちねぇがまあいい。そんなら危険だと分かったらすぐに撤収するぞ」

「当然だ。お前の言うとおり、そこまでする理由もないからな」

「そういうこった。おっ、んなこと話してたら見えてきやしたぜお嬢さん共。あれが件の家か」

 ジジの言うとおり、前方に黒い壁をしたボロボロな家並みが見えてきた。そのさらに奥には確かに湖も見える。その周りにはドレイク夫人の言っていたとおり微塵の光も通さないほどに鬱蒼と茂った森があり、どこか不気味な印象を与えていた。

「さて……それじゃあ乗り込むとするか」

 馬車をドレイク夫人の示した家の前に停め、全員が馬車から降りる。木々が光を遮っているため辺りは暗く、荒れた家々がさらにその不気味さを強調していた。湖の様子が気になったレイラが少しのぞき込んで見ると、その澱んだ水の奥底、緑藻の間に黒い壁と奇妙な螺旋階段の立ち並ぶ都市が見えた。よくよく目を凝らすと、そこには死に絶えた『おぞましきなにか』が散乱しているのが見える。その狂気の塊のような光景にはっと息を呑み、言葉を失う少女。しかし、それよりももっと、その存在そのものがこの世界への冒涜とでも言わんばかりの狂気がそこに、その都市の中央にあった。いや、『あった』のではない。『いた』のだ。まるで蛞蝓をそのまま大きくしたような外見。背中に生えた無数の刺。からだから伸びる3本の茎。そしてその先端にある3つの目がぎょろりとこちらをーー

「レイラ?どうしたんだい。顔色が悪いようだが……」

 レムに呼びかけられ、レイラははっと我に返る。

「い、いえ。なんでもありませんわ。大丈夫です」

「そうかい?それならいいんだが……速いところ調査を済ませてしまおう」

 そう言って彼らは家の中へと入っていく。

 少女は目を擦り、もう1度湖を見てみたがそこにあのおぞましき光景はもうなかった。きっと気の所為だったのだ。少女はそう結論付け、姉たちの後を追った。

 家の中は割としっかりしており、壁紙はもちろん、電灯まで備えつけられていた。

「ふむ……外の様子はともかくとして、家の中はかなり状態がいいな……下手にロンドンの家に住むよりかずっと良いんじゃないか?」

「ええ……友人も外はともかく内装は気に入ったと言っていましたよ」

「確かに。それには共感できますね。とりあえず調査を始めましょう。外から見た感じ、この家は四階建てのようです。なんで二チームに別れて調査しましょう。チームはジジとドレイク夫人、僕とレイラで分けようと思います」

「了解したよ。ジジくん、よろしく頼む」

「ああ、よろしく頼むぜ。そんで二階はお前ら二人が調査。俺らは一階を調査して終わり次第三階を、二階組は四階を調査でいいか?」

「ああ、構わない。あと、もしなにかあればみんなを呼ぶように。くれぐれも一人で危険行動に出るのはやめてくれ」

「了解。そんじゃあ俺は南側を調べるんで夫人は北側をお願いしますぜ」

「承知した」

 二人がそれぞれ調査のために解散すると、その場にはレムとレイラが残される。

「それじゃあレイラ、僕達も行こうか」

「ええ。そうしましょう」

 レイラがそう答えると彼女は階段の方へと向かう。

「お兄さま」

「ん?どうしたんだい?」

 レイラは先程の光景を思い出す。

「気をつけて……いきましょうね」

「……?ああ、もちろんだ。早く済ませて帰ろう。きっとマリア達が夕飯を作って待っているだろうからね」

 レイラの発言に戸惑ったのだろう。少し不思議そうな顔をしたレムだったが、場所が場所なだけに恐怖しているのだろうと思い、そういった言葉で返した。

 二人が二階に上がると、そこも一階同様いくつかの個室に別れており、一つずつ確認していく必要があった。

「それじゃあ南側から一つずつ見ていくとしよ……」

 レムが言葉を言い終える直前にガタリ。と、北から2番目の部屋から音が聞こえてきた。

「……んグッ!?」

 驚いて声を出そうとしたレイラの口を咄嗟にレムが抑える。

「落ち着くんだ、レイラ。大きな声を出してはいけない」

 そう声をかけるとレイラはこくりと頷いた。もう大丈夫だと判断したレムがそっと手を離し、彼女に指示を出す。

「レイラ、君はジジとドレイク夫人を呼んできてくれ。僕はここでドアを見張っている。ああ、心配ならいらないよ。なにか起こり次第一階へ逃げるさ」

「わかりましたわ。無茶だけはしないでくださいまし……」

 そう言うとレイラは階段を急ぎ下っていった。レムはそれを見送り、ドアを睨めつける。

「さて……鬼が出るか蛇が出るか……それともゾンビくんかな?」


「二人とも大変ですわ!二階の部屋から物音が……!」

 レイラの報告に二人はかなり驚いたようだったが案外すぐに冷静さを取り戻した。

「分かった。レムちゃんはどうしたんだい?まさか一人でその部屋に突入したわけじゃないよね?」

「いや、あいつはそこまで馬鹿じゃねぇはずだ。ドアの前で張り込んでるとかそんなとこだろ?」

「ええ、そうよ。だけど危ないことに変わりはないわ」

「ああ、そうだな。二階に急ごう。決して油断するなよ」

 そう会話を交わした後、三人は二階へ急ぐ。しかし、二階の廊下からレムの姿は消えていた。

「しまった!遅かったか……!?」

「落ち着いてくださいジジさん!北から二番目の扉です!そこが空いています!」

 ドレイク夫人に言われ、ジジが半開きになっているその扉を蹴り開ける。そこには、開け放たれた窓と部屋の中央でへたりこんでいるレムの姿があった。

「レム!?どうした!なにがあったんだ!」

「……ああ……みんな来てくれたのか。すまない。やつを取り逃がしてしまった……。ところでジジ、すまないが手を貸してくれないか……?情けないことに腰を抜かしてしまってね……」

 ジジが声をかけると、レムはか細い、女性らしい声でそう言った。そこにいつもの男性らしくあろうとしている彼女の影はない。

 ジジの手を借りて立ち上がると、彼女はここでなにが起こったのかを語り始めた。

「レイラが二人を呼びに言った後、この部屋から窓を開けるような音が聞こえてきたんだ……。逃がしてはいけないと思って、僕はこの部屋に突入した。そしたらここに奴がいたんだ!胸に青黒い痣があって、そこから赤い経路が広がっている……顔は死人みたいだった。確かに、ドレイク夫人の話に聞いたとおりのそれが、僕の予想通り、窓から逃げようとしていたんだ。捕まえなければいけないとは思ったんだが……このざまだよ。僕は恐怖に屈してしまったんだ……クソっ!」

「『予想を超えたものに出会う時、人は恐怖で足が竦んでしまう。生物としての本能がそうさせるからだ。恐怖することは別に恥ではない』……落ち着いてくださいお兄さま。お兄さま自身がそうおっしゃっていたではありませんか」

「……!そうだったね。レイラ……ありがとう。どうやら僕は取り乱してしまっていたようだ。しかし、僕のミスで取り逃してしまったのは事実だ。それについては謝らせてほしい。済まなかった」

 レムが三人に向かって頭を下げる。

「気にすんな。俺でもそうなってたかもしれん」

 珍しく気を使ったのか、ジジがそう答える。

「そうか……ありがとう。それじゃあ急いでここを出るとしましょう。さっきの奴が集団で戻って来るかもしれない」

「ちょっと待て。そのゾンビさんがさっきまでいたってんなら、ここで何かをしていたわけだろ?何をしていたかの調査くらいはしていこうぜ。これじゃあここまで来た意味がねぇ」

「なるほど、それは確かに一理あるな。それじゃあジジは下に戻っていつでも馬車を出せるようにしといてくれ。他二人は僕と一緒にこの部屋の調査を少しだけしていきましょう」

「了解した。そんじゃあすぐに戻って来いよ。半クオーター探して何も無けりゃそこで調査は切り上げろ。いいな?」

「誰に口を聞いているのよ。それくらい分かっているわ」

 ふん、とレイラがジジに対して言い放つ。

「……ほんと可愛くねぇお嬢さんだぜ」

 その後ジジが外の馬車まで戻り、残された三人は調査を始める。すると、案外すぐにその答えは見つかった。

「レムちゃん、もしかしてこれじゃあないかな」

 調査開始から一分ほどでドレイク夫人がレムに声をかける。

「だからレムちゃんと呼ぶのはやめてくれと……どれです?」

「いや、これなんだがね」

 そう言って彼女は、机の上に広げられていた本を指さす。

「なるほど……確かに。この本はまだインクも乾ききっていない。ついさっきまで奴が書いていたと考えれば説明がつく……」

 そこまで言うと、レムの顔がサッと青くなった。

「どうかされました?」

「馬車で説明する。さあ、目的の物は見つかったんだ。ジジのところに急ごう」

 彼女はレイラの問いに焦ったようにそう答えると、階段の方へと急いだ。二人もレムの様子を不思議に思いつつ、その後を追う。

「ん?なんだ。もう調べ終わったのか」

「ああ、急いで馬車を出してくれ」

 三人が乗り込むとすぐに馬車は出発した。湖からの視線には気づかずにーー

「ところで、何を見つけたんだ?ずいぶんと速かったが……」

「本だよ。まだインクが乾ききっていなかったんだ」

「なるほど、そのゾンビさんが書いてたってことか。……!そいつぁつまり……」

「まあ……そういう事だろうな。ある程度想像はしていたが……」

「つまりどういうことですの?」

 レイラが尋ねると、レムは渋い顔をして答えた。

「つまり……奴らは文字が書けると言うことだ。そう考えると……元々は人間であった可能性が高い。……人間がああなってしまうとは考えたくないけどね」

 人間がゾンビになる。お話の中でではなく、現実で。レイラは正直信じることができなかった。尊敬する兄の言葉が初めて信じられなかった。信じたくなかった。人が化け物になってしまうなど。人が人でなくなるなど。レイラは吐きそうになるのをすんでのところで我慢した。

「ところで、その本はなんてタイトルなんだ?」

「ええと……恐らくだが「グラーキの黙示録」だな。グラーキか……初めて聞く単語だな」

「俺もだ。とりあえず中身は帰ってから読むとしようぜ。ゾンビのことについてなにか書かれてるかもしれん。とりあえず今日のことはボスに報告しておくさ。あの人ならなんか知っててもおかしくねぇし……それと、うちの奴らを近づかせないようにってな」

「ああ……それがいいだろう」

 途中で馬車とすれ違う。きっとどこかの分かれ道を曲がってセヴァンフォードにでも行くのだろう。

 疲れきった彼らの前に、ブリチェスターのガスライトが見えてきた。皆がその灯りを見て一安心する中、少女は思い出していた……湖の底の狂気を。あれは本当に気の所為だったのか。もし気の所為でないのなら、ゾンビにもなにか関係があるのではないか?……まだ言うわけにはいかない。みんなを不安にさせたくはない。出来ることならば私一人で……。

 この時、少女は無自覚にも開いてしまったのだ。狂気への扉をーー

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