還る者
第3話 捜索依頼
時は一八八八年。ブリチェスターの郊外にある小さなパブ。自宅と店、そして探偵事務所を兼ねているその建物の中。
もう夜の帳が落ちようかという時分にそのドアは開かれた。
「いらっしゃいませ……おや、ケイトさん。いかがされましたか、こんな時間に」
初老のマスター、シーザーの前に現れたのは同年代の女性であった。彼女はシーザーの友人であり、会う度によく言葉を交わす間柄だ。
「シーザーさん……その、このパブは探偵さんもいらっしゃるんですよね?」
そのひと言で、彼女の普段とは異なる雰囲気を感じ取ったシーザーはドリンクの準備をやめた。
「ええ。いますよ。今呼んできますから、少々お待ちくださいね」
今日ばかりは他に客がいなくてよかったとシーザーは思った。
急いでドアの表示をクローズに変える。常連には悪いが、今夜のパブは急遽閉店。今からここはジョーンズ探偵事務所だ。
「それで……息子さんを探してほしい、という依頼でお間違いないでしょうか」
シーザーに呼ばれて出てきたのは男装の麗人であり、この探偵事務所の主、レム・ジョーンズだ。
「はい。昨日から家に帰っていなくて……エジプトから帰ってきてからというもの、様子がおかしくて……まるで別人なんです」
「ああ、スエズ運河帰りの兵士なのか。それで、様子がおかしいというのは、どういった行動からそう思われたのでしょう?」
レムが訊ねると、ケイトは一層その表情を暗くした。
「優しい子だったんです。だけど、帰ってきてからは口調も変わってて……エジプトの文化に触発されたのか、おかしな事を言うようになったんです」
「僕も一度会ったことがあるけど、いかにも好青年といった風だったよ」
ケイトの言葉にシーザーも同調する。レムはひとつ頷いて質問を続けた。
「おかしな事を言うようになった……というのは、具体的にどのようなことを?」
ケイトは俯き、その事実を確かめるように、ぽつり、ぽつりとゆっくり言葉を吐き出す。
「信心深い子の……はずでした。教会にだって昔から何度も……なのに……なのに……」
ケイトが言葉を詰まらせても、二人は気長に待ち続ける。押しつぶされるような静寂の後、彼女の口から出てきたのは、想像を絶する言葉であった。
「『祈りを捧げるべきは星と深海の父』か……」
ケイトが去り、次の日の探偵事務所。捜査開始前にレムは情報の整理をしていた。
「お兄さま、なんですの? それ」
話しかけてきたのはジョーンズ三姉妹の一番下であり姉のレムに憧れる少女、レイラだ。
「ああ、捜索依頼を受けた行方不明者の言葉でね。一体どういう意味なのやら……」
「星と深海の父ですか……」
レイラの脳裏に、先日の光景が思い浮かぶ。先日、湖の底に見た冒涜の権化。信じられない程大きな蛞蝓の背に無数の棘を生やしたような、気味の悪い存在。
レイラは大きく身震いをする。
否、あれは違うはずだ。あの光景が見えたのは湖の底。であれば、奴が星と深海の父とは考えにくい。
「行方不明者捜索の依頼ということは、これから聞き込みにでも行かれるのではなくって?」
「ああ。もちろんそのつもりだよ。こんな時にジジが居れば人手になるんだけど……なんとも間の悪い男だ。今日はいないようだね」
「でしたら私を連れて行ってくださいな。必ずやあの木偶の坊よりも役に立ってみせますわ!」
食い気味なレイラに少々戸惑いつつも、聞き込みくらいなら危険が及ぶこともないだろうと考えたレムは、提案を飲むことに決めた。
「レイラさえよければ、そうだね。手伝ってもらおうかな」
「ありがとうございますわお兄さま!」
「兄様ったら、レイラに甘いんだから」
困り顔で口を挟んできたのは三姉妹が次女、マリアだった。
彼女はパブで働いており、二人と違って探偵として動くことは無い。しかし、レイラが探偵の仕事を手伝うことにマリアは心配をしているようだ。
「大丈夫ですわ、マリアお姉さま。私も身の程知らずではありません。危険なことはしないつもりですわ」
「そうは言うけれど……」
「大丈夫だよマリア。僕もついてる。今日はボディーガードもいないことだし、なにかあればすぐに撤退するさ」
「兄様がそこまで言うのならいいですけど……ちゃんと言うことを聞くのよ? レイラ」
「もちろんですわ!」
自信満々に胸を張るレイラに不安を覚えるも、言っても聞かないことを知っているマリアはパブの準備に戻っていった。
「それで、行方不明者というのはどういった方なんですの?」
「彼の名前はアーネスト。スエズ運河帰りの兵士でね……エジプトで何を見てきたのかは知らないが、どうにも精神に異常をきたしているようだ」
「精神に異常を……それで、先程のような言葉を?」
「そのようだね。軍人だけあって、大柄で力も強いようだ。接触する際にはお互い充分に気をつけよう」
レイラがしっかりと頷いたのを見て、レムは立ち上がる。
「よし。他の特徴については移動しながら話す。ひとまず彼の家の付近で聞き込みをするから、出かける準備をしてくれ」
「わかりましたわ!」
レイラも立ち上がると、急ぎ足で奥の居住スペースへと向かう。
その背中を見ながら、レムは一抹の不安を覚えた。
「本当になにもないといいんだが……」
寂れた街角で聞き込みを始めると、案外早いうちに欲しかった情報は手に入った。
「アーネストってぇと、ケイトさんとこの倅かい。あいつならたしか……昨日か一昨日だったかな? ブリチェスターの道端でバッタリ会ってなぁ。大学の図書館に行くっつってたよ」
「大学図書館……ですか」
「ああ。そう言ってたはずだよ」
そう証言したのは一人の鉱夫。どうにもアーネストやケイトの知り合いのようだった。
「そうですか。ありがとうございます」
「ああ、いいってことよ。それより、あんた女だろ? 見たところ随分美人だし、こんなことやってねぇで……」
「失礼。急いでいますので」
それだけ言い残して、レムはその場を後にする。少々不快な思いはしたが、いい情報を手に入れた。
「レイラ!」
近くで聞き込みをしていたレイラを呼びつけ、レムは歩を早める。
「お兄さま、なにかわかりましたの?」
「ああ。どうにもブリチェスター大学の図書館に行っていたらしい」
告げると、レイラは訝しげな表情をしてみせた。
「図書館……ですか。行方をくらましてまで、なぜ……」
「それはわからないけど、なにかいい情報が手に入るかもしれない。とにかく向かってみよう」
「アーネスト氏が来たかどうか? そういったことはわかりませんね」
図書館の受付で訊ねると、レムの予想通りの答えが返ってきた。その少し小馬鹿にしたような様子に、レイラは少し憤慨しかけるがここはグッと堪えた。
「ふむ。やはりそうですか。では、大柄の……少々様子のおかしな青年が来ませんでしたか?」
「大柄の青年なんていくらでも……」
半ば呆れた様子だった受付が、なにか思い出したように言葉を止める。
「そういえば……昨日来ましたね。様子のおかしな大男」
「本当ですか! どういった本を読んでいたかは覚えていますか」
「ええ。それも随分と変わった本でしたから……たしか」
「……これか」
レムが手に取ったのは、くたびれた紙を何枚も束ねたような、書物と呼ぶのもおこがましい物だった。
「こんなものをどうして……」
そう呟くレイラには、ただの紙束のはずのそれが、どうにもおぞましい物に思えて仕方がなかった。
「わからない。けれど、これが理由の一つなのは間違いない。少し読んでみるから、少々待っていてもらってもいいかな?」
「もちろんです。隣でお待ちしておりますわ……お気をつけて」
「? なに、本を読むだけさ。そうだ。少しお金を渡すから、なにか店で買って食べておくといい。夕飯が入らなくならないようにね」
そう笑ってレムは少額をレイラに手渡す。
レイラがそれを手に取ると、爽やかにはにかんでレムは本に目を通し始めた。
それでも、レイラの胸の重たい霧は晴れない。しかしそれが何故なのか、彼女にはわからなかった。
「焼きじゃがいもはなかなかに悪くないのよね……」
ゆっくりと屋台飯を堪能したレイラが図書館に戻ると、レムは既に本を読むのをやめているようだった。
「お兄さま、どうでしたか? 『サセックス草稿』とやらは」
「……レイラか」
半分程机に突っ伏していたレムがゆっくりと顔を上げる。その顔からは血の気がすっかり引いていた。
「お兄さま? 大丈夫ですか! 顔色が……」
「ああ。大丈夫だ。それよりも今日は帰ろう」
そう言ってレムは立ち上がる。しかし、ぐらりとよろけ、咄嗟にレイラが支えに入る。
「お兄さま!」
レイラが触れたその体には、冷たい汗が流れていた。
「すまないレイラ……もう、大丈夫だ」
「その、あの本は……」
「……欲しかった情報はなかった。今日のところは店に帰ろう。捜査の続きはまた明日だ」
それだけ言って、レムはその帰路で口を開くことはなかった。
レイラには尊敬する兄がなにを見たのか皆目見当もつかなかったが、あの嫌な予感が当たったことだけは、沈黙によって痛いほどに思い知らされた。
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