ブリチェスターの姉妹探偵 〜ヴィクトリア朝×クトゥルフ神話〜
いご
ゾンビ伝説の影
第1話 ゾンビの噂
時は一八八八年、イギリスの都市ブリチェスターでは、ゾンビを目撃したという噂が急増していた。
そしてここはそんなブリチェスターの郊外にある小さなパブ。自宅と店、そして探偵事務所を兼ねているその建物の中。椅子に深く腰掛けた男装の麗人、レム・ジョーンズがなにやら深く考えこんでいた。
「ふむ……」
「あら、お兄さま。なにをそんなに考えこんでなさるの?」
そんな彼……いや、彼女に齢十歳程度の綺麗なジンジャーの髪をした少女が話しかけてきた。
「ああ、レイラ。なにを、か。そうだな。レイラ、君もゾンビの噂は耳にしているだろう?」
「ええ、もちろんですわ。もちろんゾンビなんて信じてはいないし、胡散臭いとも思っていますけれど」
「そうやって確認もしていないのに否定から入るのはよろしくないな。火のないところに煙は立たないと言うだろう?」
「ではお兄さまはこの噂を信じていると?」
尊敬する兄が作り話としか思えない噂を信じ込んでいるのではと思ったレイラは少し眉をひそめ訊ねた。
「いや、そう簡単に信じ込むのもいけない。僕としては今のところノーコメントかな。しかし、ただのデマにしては目撃者が多すぎる。ゾンビはいないにしてもなにかしら噂が立つことになった理由があるんじゃないかな」
「なるほど……それは確かに。しかし、なぜ今そのような事を?」
「なぜって、そりゃ簡単さ」
レムがそこまで言うと、店のドアが荒々しく開けられた。
「おや、噂をすればなんとやら。今回の依頼人のお出ましのようだ」
「レムちゃん!レムちゃんはいるかい!」
「そう叫ばずともここにおりますよ。あと……レムちゃんと呼ぶのはやめていただきたい」
「あ、ああ、それは悪かったね……。ところで電報は見てくれたかな?」
「ええ、確かに拝見しましたよ。とりあえずお座りください。レイラ、ドレイク夫人に紅茶を持ってきてくれ」
「承知しました」
レイラが席を立ち、カウンターへと向かう。
「マリアお姉さま、お客様です。紅茶を1つお願い致します」
レイラがそう呼びかけると、綺麗なプラチナブロンドの髪をした少女がそれに答えた。
「了解したわ、レイラ。ドレイク夫人よね?」
「ええ、そうですわ」
「了解。たしかあの人の好みは……シーザーさん。アールグレイはありましたかね?」
「ああ、ついこの間入荷したばかりのがそこの棚に入ってるはずだよ」
「わかりました。レイラ、私が持っていくから君は兄様と一緒にドレイク夫人の話を聞いてらっしゃい」
「わかりました。それではお言葉に甘えさせていただきますわ」
そう言うとレイラは目をキラキラと輝かせ、レム達の元へと向かった。
「あらあら……微笑ましいわねぇ」
「ははっ、全くだな」
そう言って白髪混じりの髪をした初老の男性がマリアに話しかけてくる。この店の主人、シーザー・ダイヤモンドだ。
「それでどうだい?レイラはレムのような探偵になれそうかな」
「さあ、どうでしょう。私にはそういうことはわかりませんので……ただ、やる気は十分みたいですよ」
「やる気があり過ぎて空回りしないといいけどな。マスター、酒持ってきて~」
自然と会話に入ってきたのはカウンターで飲んだくれているガタイのいいイタリアンだ。
「はいはいただいま……。ところでジジくん。今日の仕事はもうないのかい?」
「あんたらへの連絡だけで終わりだよ~。せっかくボスに暇を貰ったんだし飲まないとね。マリアちゃんも一緒にどう?」
「アルバートさんのお誘いとあれば……シーザーさん、よろしいですか?」
シーザーは半ば困ったように頭をかくと、
「まあお客さんの頼みとなると仕方ないね。それじゃあまだ昼だし店も閉めちゃうか。僕は奥にいるから。お二人でごゆっくり~」
と言い、店のドアに掛かっているプレートをCLOSEに変えると、奥の居住スペースへと戻っていった。
「なんかマスターに気ぃ使わせちまったみてぇだな……さて、そんじゃあ飲むか」
「そうですね。あ、私この前のお話の続き聞きたいです」
「この前の話?なに話したかな……」
「ほら、あれですよ。ボスと出会った時の……」
「あー、あれか。オーケーオーケー。それにしても、こんないい女と一緒に飲めるなんて最高だな」
「もう……またからかって。私一五ですよ?」
「愛に年齢は関係ないのさ。たった八歳じゃねえか。そんなの無いに等しいぜ。それであの話か。あの時はな……」
「ああ、すいません。少しだけ待ってくださいません?今お客さまの紅茶を淹れ終わったので持っていかないと」
「ん、そうか。承知した。きっとお客さんも待ちわびてるぜ。早く持っていってやりな」
「はい。では少し失礼しますね」
マリアはジジにそう告げると、紅茶を用意しレム達のいるテーブルへ運んでいった。
「それでそのゾンビというのは……ああ、マリア。すまない、ご苦労だったね」
「いえいえ、大したことはございませんわ。それではごゆっくり」
ドレイク夫人に一礼した後、マリアはジジの元へ戻っていく。
「その、なんだろうね。彼女はいかにも恋する乙女って感じでいいね。青春の匂いがするよ」
嬉しそうにジジの元へ行くマリアを見てドレイク夫人がそう言うと、レムは少しだけ困ったような顔をした。
「ははは、僕も兄として妹には幸せになってもらいたいものですよ。まあ、相手を選んでほしいというのはありますが……それでドレイク夫人。話を戻しましょう。貴方がそのゾンビを見かけたのは北の湖の近くで間違いないですね?」
「ああ、そうだね。私はあの時、友人と一緒に湖畔の家の視察に行っていたんだ。その友人が別荘を探していてね。そこが売りに出されてるって話を聞いてたからちょうどいいんじゃないかと思って。ある程度家の中も見て、天気も良かったから少し近くを歩いてみようって私が提案したんだ。あんな事を言わなければ良かったと今になって思うよ。それで湖沿いの道を歩いていると木々が生い茂るところに入っていってね。なぜだかは分からないけど不快感を感じていたんだ。木々が迫ってくるようで……光も全然通してなかった。そしたら私達の前方に人影を見つけてね。近くに住んでる人かもしれないって思って声をかけたんだ……そしたらその人の顔……死人のようだった。いや、ようだったではないな。あれはまさに死人そのものだ。血の気が無くって骸骨みたいに痩せていたよ。そしてその胸には青黒い痣があってそこから赤い経路が放射状に広がっていた……とてもじゃないが人間とは思えなかったよ。それで私が護身用にレイピアを持っている事は君たちも知っているだろう?そいつが呪い動きで襲いかかってきたからあれで喉元を一突きしたんだ。今思うと早計だったかもしれない。それで相手が怯んだのを見計らって友人と一緒に逃げたんだ。これが私が君に相談を持ちかけた理由だよ」
「それはいつのことでしょうか」
「今日の午前中、ついさっきのことだね。湖畔の家で君に電報を打って、そのまま飛んできたんだよ」
「なるほど、ふむ……」
レムは少し考えこみ、立ち上がった。
「それではその湖畔の家まで行ってみましょう。ところでその友人は?」
「彼女なら今ごろロンドンの家に帰ってるところだよ。やはりショックが大きかったようでね」
「なるほど、それでは向かうとしますか。レイラ、君も来るんだろう?支度をしなさい」
「わかりましたわ、お兄さま!」
そう言うとレイラは、待ってましたと言わんばかりに目を輝かせて奥の居住スペースへと駆けていった。
「ジジ、悪いが君もついてきてくれないかな」
不意に声をかけられたジジは、面倒くさそうにレムの方を向くと、
「なんで俺が行かなきゃなんねーんだよ」
と吐き捨てた。
「ん?別に嫌なら構わないんだがね。ただ、ボスからの命令には僕達の警護も含まれてなかったかい?別にこれで僕らが怪我をして帰ってきてもいいってことなら……」
レムがそこまで言うと、
「オーライ分かった。付いてってやろうじゃねえか」
いとも簡単に考えを変えた。
「え、もう行っちゃうんですか……?」
マリアが残念そうに呟く。
「まあ、これも仕事だからな。仕方ねえよ。それに……」
「女『三人』を放っとくのも危ねえしな!」
「チッ……軟派なイタリアンが。マリア、君もそろそろ夜に向けて店の準備を始めた方がいいだろう。すぐに戻ってくるからそこまで気にする必要もないよ」
レムが椅子に掛けてあったコートを羽織りながらそう声をかける。
「準備完了ですわお兄さま!」
ちょうど準備を終えたレイラが飛び出してくる。よほど急いだのか、肩で息をしていた。
「おお、これはまた一段と速かったね。それじゃあ行こうか」
「はい!ところでお兄さま……」
レイラが嫌そうにジジを指さす。
「こいつも一緒に来ますの?」
「ああ、彼は護衛としてね。いや、僕としても誠に不本意なんだけど」
「おいおいひでぇ言われようだなぁ。おまえら俺のどこが嫌いなんだよ」
「僕を女として見てるとこが嫌い」
「私をガキとして見てるとこが嫌い」
「……そいつぁどうも」
そんな会話をしつつ、彼らはパブを後にする。
「いってらっしゃ~い。あ、シーザーさん。ずいぶんとタイミングのいいこと。盗み聞きでもしてらしたの?」
あまりにタイミングよく奥からシーザーが出てきたのでマリアがそんな冗談を言った。
「レイラに出掛けるって聞いてね。湖の方行くとか言ってたけど大丈夫かな……」
「あら、なにかご存知で?」
「いや、まあ、あの辺は昔から変な噂が絶えないからね。あの湖は隕石が落ちてきて出来たなんて言うやつもいるし、挙句その湖に『潜み棲むもの』が悪夢を送り出してるなんていうのも聞いたことがあるな」
「へぇ……。そう言われちゃうとなんだか近づきたくはないですよね」
「まあそういうことだね。マリアは僕と一緒に下準備でも進めとこうよ」
「そうですね!みんながお腹空かせて帰ってきた時のためにも頑張らなくちゃ!」
そう言って意気込んだマリアが準備を始める。
その時窓の外では、静かに雨が降り始めていた。
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