第10話 心の壁
朝、いつものように佳純先輩に向けて精いっぱいの元気な挨拶をかました。そろそろこの『快活な後輩』にも疲れてきたが、かと言って、いつもの私を見せてしまえば、佳純先輩はきっと離れて行ってしまう。ただでさえ、昨日は嫉妬に駆られて酷く自分勝手なことをしちゃったわけだし、これからはちゃんとしないとな。いやまあ、そもそも佳純先輩がそんな私を求めているのかっていう話もあるけれど。
それ以前に、私は佳純先輩とどうなりたいのか。確かに、佳純先輩のことが好きだ。けれど、その好きは結局、恋愛感情なのか、それともただの尊敬なのか、佳純先輩と少し親しくなった今でもそれはまだわからなかった。もし、ただの尊敬ならば今のままでも充分仲の良い先輩後輩だけれど、それだけじゃ嫌な私がいる。もっともっと先輩の中に私がいてほしい気持ちが多分にある。
じゃあ、先輩とキスとかしたいのかと訊かれると、どうなのだろう、と考えてしまう。それも違う気がするのだ。そんなこと、夢にも思っていない。けれど、もっと近くで先輩に触れたいという思いも否めない事実だった。手を繋いでもらったら嬉しいし、何なら抱きしめてほしい。これは明らかに尊敬では無いし、もし恋愛感情でもなければ、じゃあ何なのか。ただ甘えたいだけかもしれない。それにしても、その気持ちのルーツが解らない。
まあ、どうであれ、嫉妬して佳純先輩の言動を抑制するのは違うよなあ。もっと佳純先輩の話が聞きたいのに、佳純先輩の友達の話を禁じちゃったら、何も話せなくなるよね。あー、ばかだなあ、私。
昨日の自分を反省しつつしばらく歩くと、佳純先輩の様子がおかしいことに気付いた。どうおかしいかっていうと、まず、音楽も聴いていなければ文庫本も読んでいない。まあ、これは昨日と同じなのでどうってことは無い。昨日は友達と揉めてそれに悩んでいたから、ってことだったから、それがまだ解決していないのだろう。それなら不自然では無いのだけれど、今日は昨日と違って、変な仕草をしていた。浮かない顔をして、時折、顔を真っ赤にして両手で顔を覆ったり、頭を左右に振ったり、いつも落ち着いている佳純先輩とは思えない程忙しなかった。
…可愛い。なんだろう、この守ってあげたい感は。切れ長の目が少し頼りなく歪み、口も空きっぱなしだ。顔が真っ赤になってからの一連の仕草も可愛い。なんだろう、昨日何か恥ずかしいことでもしちゃったのだろうか。もしかしたら、お友達に関する何かだろうか。
だとしたら、何があったか訊かない方が良いのかな。言いにくいことだったら嫌な気分にさせてしまうし、解決してなかったら尚の事悪いよね。
でも何か…やだな。私が関係ないところで佳純先輩の心が揺れるようなことが起こって、私が関与できない悩みを佳純先輩が持ってしまうって、なんかやだ。佳純先輩には笑っていてほしいけれど、どうせ悩むなら私のことで悩んでほしい。私のことを想って欲しい。そうして佳純先輩の中に入り込んで、私のことだけを考えていてほしい。
こんな醜い感情、佳純先輩に見せたくはないけれど、多分佳純先輩の中には今その友達が占拠している。そんなの嫌だ。少しでも私に目を向けてくれないだろうか。
どうしよう…。
「何が?」佳純先輩が訊く。
「何がって、何がですか?」
「いま、どうしよ、って言ったからどうしたのかな、と」
「…なるほど」私は一つだけ頷いて、そのまま俯いた。
声に出てたー!やっちまったー!え、どこまで喋った?どうしよ、までなら全然大丈夫なのだけれど、それ以外のことを喋ってたら、かなり不味い。気持ち悪いと思われる!自分でも思ってるし!
「恵美?なにかあるなら…」
「ご、ごめんなさい、先輩の事一人占めしたいとか思ってごめんなさい!つい、つい出来心で!」私はぎくりとして妙なことを口走った。
出来心とは。
「ん…?大丈夫?」
「は、はい。大丈夫です…たぶん…」
「…一人占めしたいって言うのは?」
ちゃんと聞いてたー!さすがは佳純先輩、だけど今はそれは駄目だ!だって、それ、駄目じゃん!心の声だだ漏れじゃん!
ど、どうしよう、どう言い訳しよう?これ、無理じゃない?無理ゲーじゃない?
「言葉通りの意味です!」よりにもよってたいへん素直な声が出た。
「はは」引くよね、やっぱり。そんなに親しくもない年下からこんなこと言われても困るよね。やっちゃったなー。「うん…まあでも、今のところ恵美と私の二人なんだから、この時間は一人占め、って言えない?」しかし、先輩は動じなかった。ね?と佳純先輩は諭す様に言って、頭を撫でてくれた。
これは…ずるいな。これじゃあ、一層佳純先輩が私の中で大きな存在になってしまう。どうやっても、この人から離れたくなくなってしまう。私はまた舞い上がって、嬉しさが込み上げてきた。
「…吐きそう」
「いい加減慣れたわ」佳純先輩は言って、撫でていた手を引っ込める。あ、と私は名残惜しく、声を出した。「まあ、治まったらね」
「あ、あの、先輩!」私は意を決して言った。「訊いてもいいですか?」
「何を?」佳純先輩は不思議そうに私を見る。あ、やばい、これはなかなか嬉しい視線だ。いやまあ、この状況自体はあまり好ましくないけれど、不思議そうな顔は結構珍しい。この表情を引き出せただけで結構な収穫と言えないだろうか。というか、佳純先輩、出会ったころより表情が豊かになったよね。これ、打ち解けてきたってことで良いのかな。それとも、佳純先輩の心境の変化か。どちらにしても、得をするのは私だあー!ありがとうございます!ありがとうございます!
感謝の気持ちを今すぐにでも佳純先輩に伝えたかったのだが、話の流れ的にそうはいかなかった。
「えっと、今日、なんかちょっとおかしいじゃないですか」
「ん、何が?」
「先輩が、です」
「私が?…おかしいかな?」
「はい。なんか、こう、なんか落ち着かない様子です」
「んー…確かに落ち着かない」佳純先輩は頷いてから、苦笑いで答えた。「…恵美には言いたくない話なんだ」
「え、なんで」
「えっと…いや、うん。なんとなく」
「それじゃあ」理由にならない、と言いかけたが佳純先輩は本当に困ったような表情をしていた。「…ごめんなさい、変なことを訊いて。忘れてください」
「ごめんね、恵美」申し訳なさそうに言った佳純先輩を見て、私は何も言えなくなった。
それから、私はいつものように話し始める。目に留まったものを話題に、益体もない話をする。佳純先輩はそれに気の無い返事をして、いつもの時間が流れ始めた。
しかし私はその間にも、秘密が佳純先輩と自分を隔てる壁のような気がしてならなかった。
佳純先輩のことがいつもより遠く感じた。
「だー、もう!沙織、今日カラオケ行こう!」自分の席につくと、沙織が近くに来たので、挨拶もそこそこにそう言った。
「うわ、恵美さんが荒れてる。初めて見た」やさぐれてるのは知っていたけど、と沙織はつけたした。
「初めてって…あんた私と付き合い長いんじゃなかったの?」幼い頃とか、結構癇癪起こしたりしてたように思うのだが。
「ぎくぅ…そこをつかれると痛い」
「痛いって、どういう意味よ」
「いやあ、恵美さんが人の悪口言ってたりするところ、見たことないからさ。最近、もしかしたらそこまで親しい友達でも無かったのなあ、なんて思ってきて」
「ええ…今更それ言う?」
「えへ」
「えへ、じゃなくて…あんた会った時、親友だったくらいの勢いで言ってなかったっけ?」
「私的にはそのくらい好きだった」
「それを私に押し付けられてもな」
「うう…」
「まあいいか。今はちゃんと友達だしね?」
「ぐはっ」
「ぐはじゃなくて」私は言ってから、「それで?今日ダメ?」
「ああ、本気で言ってたのか」沙織は少し考えるように宙を見る。
「ダメならいいけど?」
「いやいや、今日は大丈夫だった。昨日と明日が駄目だ」
「それは…」タイミングが良いと考えるべきか、それとも予定を合わせていると考えるべきか。「沙織は塾とか行ってんの?」
「うん。月水金と」
「なるほど」それなら大丈夫かな。今日は木曜日だし。
「そうで無くても、恵美さんのお誘いを断るわけないじゃない」
「いや、知らないけど」
「つれない…」
「よしよし」私は沙織の頭を撫でる。なんとなくだ。
「許す!」沙織は恥ずかしくなったのか、声を大きくして言った。
「ん、じゃあ、駅前のとこ、放課後に行こう」
「なんか、高校生っぽくていいね。初めてだよー、カラオケ」
「え、なに、それは高校生になってからってこと?それとも今まで行ったことなかったってこと?」
「いやいやー。さすがに一回も行ったことないってわけじゃないよー」
「それは安心した」
「最初に行ったのは半年くらい前かなー。中学の打ち上げ」にぎやかし要員で、と沙織は小声でつけたした。
「え、歌わないの?」
「いやいやー、歌うよー、むっちゃ歌う」
「ほんとか…?私一人で歌うなんてことになったら困るよ…?」
「大丈夫だよー。大丈夫ー。確約はできないけど」
「…今日はやめようかな」
「冗談!今までの全部冗談!カラオケとか、週一で行くし!しかも一回に八時間とか全然行っちゃうし!」
「取って付けたように……まあいいけど。絶対歌うなら」
「絶対!保障するから、今日行こう!」
「うんまあ…じゃあ、行こうか」
「うん!」沙織は威勢良く頷いた。
「よしよし」
「……ぐは」
沙織とは、ショッピングモールに出かけて以降、結構仲良くなっていた。まあ、朝挨拶して、何の気なしに話せるくらいには。こうなってきたら、なんで初めの頃避けていたのか微妙に分からないな。沙織のテンションはだいたい当初と同じだし、もしかしたら私が変わったのかもしれない。佳純先輩のおかげなのだろう。
もともとは佳純先輩と仲良くなるために沙織で練習しようと思っていたのだが、佳純先輩とは逆に距離ができてしまって、なんか本当の目的が迷子だ。どうすれば良いのかな。特に喧嘩したわけでもないので、単純にはいかない。以前より私のことを長く考えてもらえるような、私にもっと関心を持ってもらえるような、何かしらの行動を起こさないと。
……これ、危険な思考に陥っていないだろうか。いや、気にしないでおこう。
そういえば、と思い至る。佳純先輩と出かけたこと、一度もないな。もっと私のことを思っていてほしい、とか乙女チックなことを考えておきながら、出かけたことが無いっていうのは致命的だ。明日にでも誘ってみようかな。
「ねえ、沙織?」学校を出てしばらく行ったところで、沙織の益体もない話を遮って言った。
「ん、どうした恵美さん?」沙織は驚いたように返事をする。
「沙織はさ、そんなに仲がいいわけでも無い浅い知り合いと出かけるとしたら、どこに行ったら嬉しい?」私は佳純先輩に対する自分をそんな風に評価した。望みを言うならもう少し仲が良い気がするけれど、佳純先輩がどう思っているのか、今日の一件で自信を失っていた。そうでなくても、この難易度ならば対応できると思う。知らないやつと行って楽しめる場所ならば、友人と行って楽しくないわけがない。と、おもう。
幸い、沙織は交友関係がちゃんとしている。私みたいに好きな人としか話さないとかそんなんじゃなく、よく知らない相手とも喋る社交的な人間だ。良い返答をくれるはず。
「……」私の期待をよそに、沙織は困ったように首を傾けた。「…それは私のこと、かな、?」
「いや、違うけど…って、なに泣きそうになってんの!違うってば!」
「だって…だって…」
「大丈夫だから、沙織のことを大して親しくもないのに馴れ馴れしく突っかかってくるうるせえやつとか思ってないよ」
「言ったよね!?今全部言ったよね!?酷いよぉ…最近やっと仲良くなってきたと思ったのに…」
「だから違うってば」私は誤解を解こうと重ねて言うが、沙織は泣きっぱなしだ。どうやらウソ泣きとかではなく本当に泣いているらしい。
「じゃあなんでそんなはなしするのさ……」
「えっと、雑談、雑談だよ」
「恵美さんが雑談なんてするわけないじゃない!もっとましな嘘吐いてよ!」
「するわー!私だって何の役にも立たないただ時間を消費するだけの話をする時だってあるわー!」
「私の話をそんな風に思ってたのー!?」
「自分では思ってなかったの!?」
「ちょっと思ってた!自分がされたら嫌だなって!」
「じゃあ、やるな!」
「恵美さんが喋んないんだからしょうがないでしょ!」
「まあ、そうだけども!」
ひとしきり吐き出すと我に返って、ここが街中であることを思いだした。こんなに騒いで、変な目で見られていた。これは不味い。いやまあ、毎朝スキップをしている私としては慣れたものであるけれど、今は泣いている沙織が隣にいる。私がいじめているとか、傍からいかがわしい勘違いをされかねない。
「沙織のことを言った訳じゃないってば…」
「嘘だよ、そんなの…」
「ぐぅ…」これは、分かってもらうには佳純先輩の話をするしかないのだろうか。できることなら、沙織には話したくない。先輩のための練習に沙織を利用していると悟られたら、さすがに口を利いてくれなくなるかもしれない。
「なんでさぁ…ビコーズオーブ…」
けれど、ショックのあまり訳のわからないことを口走っている沙織を、黙ってみているわけにはいかなかった。
「あのね、沙織、聞いて?」
「のー」沙織は俯いたまま首を振った。
「いいから、聞いてよ」
「…なーに」
「あのね、私、いま好きな人がいるの」
「……」沙織は思案顔になった。「私…?」
「違う」
「きゃっ♪(/ω\*)」
「違うっつてんでしょ!……真面目に聞いてよ」
「…ごめんなさい」
「それでね、その好きな人となんとか話せるようにはなったんだけど、なかなか思うように進展しなくって…。私だけじゃ、どうしたら良いのかわからなくて、沙織に相談しようとしたの」全部説明してから、なんだか恥ずかしくなった。「なのに沙織が先走って、なんか訳のわからないこと言うから」
「うう…ごめん」沙織は少し落ち着いたようで、泣き止んでいた。「…でも、ちょっと複雑だよ」
「ん、なんで?」
「むう。なんでもない」沙織は言ってから、「いつから好きなのさ」
「えーっと、見かけたときからだから、四月の下旬くらいかな」
「結構ずっとだ…」
「何で落ち込むのよ」
「いまここで言ったらこじれるから言わない」
「こじれるのか」
「恵美さんさ、好きな人って言ったけど、どういう好きなの?」
「どういう好きって、どういう?」
「いや、好きにも色々あるじゃない。親愛、友愛、敬愛、恋愛、慈愛なんてのもあるし。さぁ、どれだ!」
「えー…わからん…。少なくとも慈愛では無い」佳純先輩に対して慈愛を持って接するって、何様なんだ私は。
「わからんって、好きなんじゃないの?」
「いや、好きなんだけどね、いざどれだと言われると、少し難しい…」
「うーん…じゃ、じゃあじゃあ、私に対してはどれを感じてる?」 少し目を伏せて沙織は言った。
「んー…愛ってほどのものは無いかな。言うなら情?かな。情が移った」
「ぐぬぬ…」
「まあ、そうそう愛なんて芽生えるものじゃないじゃない?よっぽど一緒にいる相手とか、よっぽど気の合う人とか、チートみたいなことをしないと出会えないんじゃないかな、愛を感じる人って」
「うわあ…恵美さんポエミィ…。軽くひk…いや、何でもない」
「怒るよ」
「ごめんなさい」沙織は頭を下げた。その頭をまた撫でてみる。「でも、恵美さんはそういうけど、私、恵美さんの事好きだよ!むっちゃ愛を感じてる!」
「へえ、じゃあどの愛?」
「え…それを言われると、ちょっと困る…。少なくとも慈愛では無い」
「ほら、恵美だってそんなような答えしかできないじゃない。胸張ってこの種類の愛を感じています、なんて言える人、なかなかいないでしょうよ」いるとするなら、親とか家族だろうか。友達に対しては、友愛よりは友情だ。
「いや、私の場合は…恵美さんのとはちょっと違うし」
「どう違うっての?」
「いや…もう!何でもない!それより、もうそろそろ着くよ!」
「ちょ、なに怒ってんの?」
「別に怒って無いもん!」
「…?」
そこで会話が途切れて、そのまましばらくすると、カラオケボックスに着いた。結局私の問いには答えてくれなかったな、と気付いた時には部屋に案内された後だった。
割合綺麗なところだった。内装もそうだが、スタッフの対応とか、会員登録の料金とか、怪しいところはどこもなかった。まあ、カラオケボックスだものね。これがディスコとかライブハウスとかだったら分からないけど、カラオケボックスって、もう既に一般化されているし、対応が悪かったらチェーン展開なんてしていないか。いやまあ、ディスコにもライブハウスにも行ったことは無いけど。
案内された部屋は広めのところで、五人くらいは入れそうだった。二人で使うには広々としていて、快適だ。少し煙草臭いのは仕方があるまい。
「薄暗い…密室…」沙織が確認するように口を開いた。
「密室ではないけどね。鍵はついてないから」
「これは、どうしよう…何するか解んない」
「テンション上がって変なことしないでよ」
「!?」沙織は驚いたようにこちらを見た。「…へ、変なこと、って?」
「そりゃ、店員さんに無茶なこと言ったり、年齢偽ってお酒飲んだり…?」
「あ、そういう…」沙織は少し落胆したように肩を落としてから、心外だと言わんばかりにこちらを見た。「そんなことしそうに見えるの?」
「いや、沙織は良い子だからしないと思うけど、一応ね」
「……ん、んん」沙織は誤魔化す様に咳払いをした。「流石は恵美さん」
「なんの話?」
「いやいや、じゃあ、歌おうか。うん、歌おう」
「その前にドリンク取り行きたいんだけど」
「おおう。そうだね、そうしよう」ぎーこぎーこ、と音が鳴りそうな動きで、沙織は扉を開ける。
「ねえ、沙織。なんか、変だよ?」
「さて…」と私はデンモクという名の機械をいじりながら選曲する。
恵美さんからでいいよ、ということなので、先に選ぶことにした。ポルノグラフィティの曲しか歌う気の無い私は、しかし、時間がかかっていた。どこまでディープな曲を歌って良いのだろうか。ポルノグラフィティは有名な曲は結構あるけど、マニアックな曲も知っている私としては、迷いどころである。
しかしまあ、時間の限られたカラオケボックスのことだ、時間をかけて選曲するのはご法度だろう。ここは、メジャーな曲からせめて徐々にマイナーな曲にしていこう。
そういえば、パノラマポルノに入ってるメジャーが巻き尺の意味メジャーだったのには驚かされたなあ…。
一曲目、ハネウマライダー。これはもう、誰でも知っているだろう。知らないやつはいないはず。
印象的なギターリフが流れて、案の定沙織は反応した。が、
「この曲、どっかで聴いたことある。どこだっけー」
「怒るよ」
「何で!?」
この名曲を知らない…だと!?そんな人間が存在するのか。いや、しない。じゃあ、もしかして沙織は人間じゃないの!?
二曲目、メリッサ…はあまりに有名すぎるので、ヒトリノ夜。これはさすがに知らなくても仕方ない。まあ、私はこの曲から入った人だけど。
「あ、GTOの曲だ」
「何で!?」
「何でって何が!?」
ハネウマライダーを知らずにヒトリノ夜を知っているのは、珍しいだろう。まあ、確かに有名な漫画のアニメ化タイアップだけど、マジか。
三曲目、ここは攻めて、アニマロッサ。まあ、これもアニメタイアップだから知ってる人は知っているだろうけど、サウダージとかに比べたらマイナーな方だろう。とはいえシングル曲なのでマイナーとは言えないけれど。
「あ、アニマロッサ!ブリーチのやつだ!」
「……」
沙織まさか、アニオタか!
四曲目はもう面倒になって、カップリング曲にした。黄昏ロマンスのカップリング、副題がやたらと長い曲である。
因みに、この合間に沙織もちゃんと歌っている。テクノ系ダンスグループとか、テクノ系アイドルユニットとか、テクノポップスが中心だった。別に好きじゃないんだけどね、好きじゃないんだけどね、と再三言ったが、好きでもいいと思うのだけれど。YMOについて熱く語ってたし。
さておき、歌唱。これを歌い終わった後、沙織の様子がおかしかった。
「…良い曲だね」呟くように言った。
「そだね」激しく同意である。しかし、言い方が何だか、引っかかるものだった。
五曲目になると、もう部屋を出る時間が迫っていた。このあたりでバラードを入れるのはいかがなものかと思ったけれど、沙織だし良いかという結論に至ったので、ラインである。しっとりとして、前奏だけで泣けてしまいそうだ。
歌い終わった後、沙織は下を向いていた。
「…どうした、沙織?」体調でも悪くなったのかと沙織の顔を覗きこんだ。
すると、沙織は涙を流していた。ぽろぽろと、心底悲しそうにする。
「どうした!?なんか、えっと、大丈夫?」
マジか!沙織マジか!どんだけ響いたんだよ。確かにこんなに切ない恋愛ソングも少ないけれど、私だって泣かなかったよ!?凄いな沙織。
そんな風に沙織を見直し、一人興奮していたが、どうやらそんじょそこらの感動程度で得られる涙じゃないらしい。
「だいじょう…ぶ、だよ」それは嗚咽だった。私はことの深刻さを悟る。
沙織はごめん、と続けて言った。
何で謝るのか、よく分からなかった。私と沙織しかいないこの状況で泣いているってことは、私が悪い。それなのに泣いている友人に声を励ますこともできない。それなら私が謝るべきだ。
「何で謝るの?」
「違うの…そんなつもりじゃなくって」声は震えていたが、なんとなく言っていることは解る。けれど、その意味が解らなかった。
「いや…どういう意味よ」
上手い言葉が出てこない自分に腹が立った。それと同時に悲しくなる。沙織が涙を流すことが、どうやら私には耐えられないようだった。どうしてだろう、と考える余裕はなくて、沙織にかける言葉を必死に探した。それなのに私にはまったく思いつかず、雲をつかむような感覚がまとわりついた。
これほどもどかしいのも、いつ以来だろうか。
「あ、ごめんね…恵美さん」涙ぐんだ声で顔を上げた沙織は、表情だけ笑っていた。「何でもないの、ごめん。勝手に変になって」
「沙織…」健気だと思うと同時に痛々しくもあった。「…無理しないで。悲しかったら泣いてよ」ようやく出てきたこの言葉が正解なのか解らない。私が沙織に無理してほしくなかっただけだ。だから、自分勝手とも言えて、正しいとも間違っているとも言い難い気がした。
「ご、めん、恵美さん…五分で終わるから」言って、沙織は私に抱き付いた。殆どしがみ付くような形で、首に回された腕は痛いくらいに力が入っている。
私を気遣ってか、声をこらえるような声だった。もっと全力で泣いてくれても良かったが、余計なことは言わない方が良いかもしれない。
「うう…はあ…。。ごめん…ごめん…」
「謝らなくていいってば」私は言って、頭を撫でた。
「何で、優しいのさ…」辛そうな言葉を漏らした。「恵美さんがそんなんだから…私は…」
やはり、私が悪いみたいだ。そんなんだから、と沙織は言う。その言葉の真意を掴み損ねた。頼りない、みたいなことを言いたいのだろうか。それは確かに重々承知だけれど、私が頼りないことで沙織に何かした覚えが、ない、と思う。自分が憶えていないだけだと思いたい。
「わぁ…うう…くぅっ…」しばらくの間、沙織の嗚咽が部屋に響いた。
そのまま時間が来て、その頃には沙織は大分落ち着いていたので、延長せずにお開きとなった。もっと歌いたい気持ちがなくはなかったが、そんな空気ではないし、沙織を一刻も早く家に帰して安心させなければならなかった。私と一緒にいては少し危なっかしい。
「ごめんね、恵美さん。なんか変な感じになって、時間無駄にしちゃった」
「や、それは良いんだけど…ほんとに大丈夫?もうちょっとどこかで休んでもいいけど」
「んーん、大丈夫。もう、大丈夫」沙織は言ってから、少し笑って、「恵美さんがいっぱい構ってくれたし。満ちた」
「そう」私は言ってから、「無理しないでね」
「大丈夫だよ、全然…あの曲がちょっと響いちゃっただけだから」
「でも沙織、Sheep、えっと、その前に私が歌った曲から既におかしかったじゃない?」
「そうかな」
「そうだよ」
その二つの曲の詞には共通点があった。それは、友達同士の恋愛を描いた曲であるという点。しかし、Sheepはハッピーエンド、ラインはバッドエンドという違いがあった。
「ここからはまったくの興味本位で聞くから、答えたくなかったらそう言って」私は前置きしてから、「沙織、なんか悩んでる?」
「え…と。このご時世、悩んで無い人なんていないよね」沙織は笑って言った。暗に肯定したのだと、私は受け取る。「恵美さんだってそうでしょ?」
「私は…まあ、そうだね。うん、今まさに」
「え?」
「沙織の力になりたい」
私はいつから、沙織に対してこんなに情熱的な人間になったのだろう。基本私は冷めて、というか、無感動で、こんな芯に迫る発言をするような性格では無い。こういう時、一刻も早くその場から立ち去りたいと思うタイプの人間だった。
けれど、今はそんな事したくないと思った。なるべく沙織の近くにいて、元気になるように行動したいと、恥ずかしげもなくそう思っていた。
「恵美さん…」沙織は何かを言いかけた。それは追及せずに、沙織の発言を待つ。「何でそんなに優しいの…」
「ん…なんでだろ。強いて言うなら…反動かな?今まで冷たかったし」
「自覚あったんだ」沙織が少し笑った。それから、また謝る。「恵美さんの気持ちはとっても嬉しい…でも、まだ言いたくない、かな」
「そっか…」本人の問題に介入しようというのだから、そう簡単にはいかないだろう。
「でも、いつか言うから。絶対、いつか」
「…ありがとう」
それから、沙織も私も黙って歩いた。
赤い空がいつもより眩しく思えて、目を細める。
佳純先輩が私に隠し事をしたことを私は壁だと感じたけれど、もしかするとこういう類の話だったのかもしれない。必ずしも恋愛とは限らないけれど、自分の中で、あるいは自分たちの中で昇華しないといけない問題。それなら確かに、私みたいな他人には話せないよなあ、と納得した。沙織とも佳純先輩とも、まだ全然浅い関係だ。
それに、言うなら私だって佳純先輩に話していない問題があるし。まあ、私のは佳純先輩に関することなので本人に直接相談してどうすんだという感じで、だから相談しないのだけど、希望的に考えれば、じゃあその話せない問題が私に関することである可能性もあるのか。
いやまあ、万に一つの可能性だけれど。
やがて、分かれ道に差し掛かる。私は真っ直ぐ、沙織は曲がって、それぞれの帰路だ。
「あの、恵美さん!」沙織は振り返ると、少し力のこもった口調で私を呼ぶ。
「どうした?」びっくりしたけれど、沙織が緊張しているようなので、努めて冷静に訊く。
「あの、恵美さんに話すことはできないけど、できないんだけど…ちょっとだけ甘えてもいいかな…?」
「ん…よくわかんないけど、うん、いいよ」それで沙織の気が楽になるのなら、私はそれでいい。
「じゃあ、えい!」
「おわ」
沙織は私に体を預けて、つまり抱き付いて来る。少し体勢を崩したが、何とか受け止める。
「ごめん、いきなり」
「いいよ」
「…辛いよ、恵美さん」
「うん」
「ごめんね…ごめん」
「なんで?」
「せっかく恵美さんが優しくしてくれたのに、何も話せなかったから…」
「いいよ。私優しくしてないし、興味本位だし」
「……」沙織は黙って、回した腕の力を強くした。「愛の、しるし」
「ん?」
沙織が言ったかと思うと、頬に柔い感触があった。少しかさついて、でも柔らかいそれが沙織の唇だと気付くのには結構かかった。
「親愛の…しるし」私から離れた沙織は俯き加減でそう言った。
「本当に日本人ですか、沙織は?」
「日本人だよぉ…恵美さんの、友達の…」
日本人であることと私の友達であることがどう関係するのかと一瞬思ったけれど、成る程、私は海外に友達がいない。なにせ日本から出たことが無いからだ。そう考えると、確かに日本人であることは今の私の友達である絶対条件なのだった。
「恵美さんも、ちゅーして」沙織は泣きそうな表情でこちらを見た。「ダメ…?」
「んー…」
別に沙織に親愛を示すのが嫌だというわけでは無いのだが、流石に頬にキスは恥ずかしかった。
しかしこの羞恥は失敗した時のものとは異なった、心地の良いものだった。言うなら照れだ。春の木漏れ日に似た、柔らかく暖かい温度が内側からじわじわと私の中に広がる。それをいつまでも感じていたかった。
「でもなあ…」恥ずかしいものは恥ずかしい。
「うう…」待ちぼうけを食らっている沙織は泣きそうだった。
そこで、思いつく。そう言えばお姉ちゃんが同級生にやったというキスがあったような。本人的にはキスでも何でもなく、あいさつ程度に考えていたらしいが、変な空気になったと顔を歪めていたのを思いだす。
先に頬にキスされているのだから、余程のことじゃ無いと引かれないだろう、と高をくくって、私は沙織の手を取った。
「ちゅ」とそのまま体勢を低くして、沙織の手のこうに唇を押しあてる。沙織に向き直り、「頬にキスはさすがに恥ずかしいから、これでいい?」と訊いた。
これはこれで予想以上に恥ずかしい。
「うん…!」沙織は嬉しそうに頷いた。「でも、そっちの方が恥ずかしいと思う」
「んな!」
「ふふっ」沙織は笑って、私はそれに目を奪われる。
背景の夕陽も相まって、頬を赤く染めた沙織はとても魅力的に写った。
午後九時。風呂から上がった私は、唐突に結局佳純先輩とどこへ出かけようかという議題を思いだした。沙織のやつは結局あてにならなかったし、自分で考えるには経験不足。不本意ながら我が姉に訊いてみることにした。
だらしなくソファーに座り、つまらなそうにテレビを観ている姉がリビングにいた。私は隣に腰かけ、話しかける。
「おねーちゃん」
「あ、駄目だ、これ私が何かされるときの呼び方だ。何されるんだろ、怖い」姉はソファーから立ち上がり、じりじりと後ずさりする。
「いやいやいや、意味が解らん。何もしないし」
「え、そう?」
「うん」
「本当?」
「うん」
「良かったー」
「うん。だから、私を睨みつけたまま後ずさりをするのはやめなさい。私は熊か」
「熊には死んだふりでしょー?」
「お姉ちゃんはそうしてればいいよ」
「冷たい!お姉ちゃんを見殺しにする気!?」
「まあ、いざその時になったら」
「見殺すの!?」
「とりあえず放って、大人を呼ぶ」
「え、おおう」姉は怯んだような声を出した。「もっとリアクションしやすいやつにして!」
「ええ…めんどくせえ」
「女の子がそんなこと言っちゃあいけません」
「うるせえ」私は重ねて言ってから、「私の話を聞いて」
「むむ」姉はわざとらしく笑った。「へえー恵美が自分から、話を聞いて、とはめずらしー。いつもは、ちょっとは黙れないの、っていうのが口癖なのにー」
似ていない私の真似をする、うざったらしい姉は左右に揺れながら言った。とはいえ、自分でもその点を指摘されることは解っていたので、黙って飲み込むことにした。
「ダメ?」帰り際の沙織の真似をした。全力で猫をかぶった。
「え…えっと…」姉は驚いたように息を飲んだ。「だ、ダメじゃない。全然、ダメじゃない。聞くよ、おねーちゃんは」
「そう?」馬鹿め、と内心で罵った。「あのね、前に言ったでしょ?佳純先輩と出かけるための場所を探しておいてって」
「うん。いろいろ行ったよ」
「いろいろ行ったね」私は言ってから、「だが、そこじゃ駄目だ」
「えー!さんでさー、頑張ったのにー」
「うん。それは本当、イイ感じのところだったから成果はあるし、引き続きお願いしたいのだけど、今回はそんなんじゃない」
「ふうむ、なるほど…私の選んだ場所はもったいぶるべき場所ということか」
「認めたくはないけど、その通り。曲で例えるなら、ヒトリノ夜だね」
「何で曲で例えたか知らないけど、それは光栄」
「で、今まで教えてくれた場所は駄目なので、違う場所ない?」
「あー、成る程」姉はしばらく腕を組んで唸った。「あ、でも、うん、結構あるよ。うん」
「ほんとう?じゃあ、どこよ。言ってみ」
「えっと、千葉県にある独立国家とか」
「ん…と。夢の国?」
「うん。それとか、千葉県にある独国家とか」
「え…。ドイツ村?」
「うん。それとか、千葉県にある」
「何だその唐突な千葉県推しは!」私は堪らずに叫んだ。
「いや、千葉ってテーマパーク多いなーってふと思って」
「今思われても困るわ」
「えーだって、そんな良いトコ無かったし」姉は大人しく白状した。
「なんだって…それならそうと正直に言ってよ…」
「いや、恵美怒るかなーって」
「私が怒ったことなんてただの一度もないでしょう」
「息を吐くように嘘をつくね」
「ん…じゃあもういいから、一緒に考えてよ」
「何を?」
「佳純先輩ともっと仲良くなるには、どこが良いか」
「仲良くって…そういうところは普通仲良くなってから行くもんでしょう」
「真っ当なことを言うな。私、これでも結構仲良くなった方なんだよ?」
「え?嘘吐け。柏木さんと話してても恵美の話題なんざ微塵も出てこないよ」
「え…」私はかなりのショックを受けるが、即座に納得させる。いわば、私は登校友達、みたいなものでそれは確かに教室にいる友達に話すような人では無いだろう。いやまあ、登校友達も教室の友達も、知り合いですらごく少数だった私には当然いなかったわけで、だからどの程度の親密具合なのか計れないけれど、でも佳純先輩は結構親しく思ってくれているはず。だって、最近はよく頭を撫でてくれるし、自分のことを話してくれたりもするから、きっと私に自分のことを知ってほしいからって思ってくれているはず。
だから…だから…。
「おーい、恵美?そんなにショックを受けんでも…」
「なにさ!受けるよ、そりゃ!」
「いや、怒られてもな…」姉は困ったように言ってから、「んー仲良くなりたいって、つまり、その人に自分のことを長く考えてほしいとか、そういうこと?」
「ある視点では、その通り」
「なら、単純に一緒にいる時間が長ければいいと思う」
「なるほど」
「シチュエーションとか、希望は?」
「えっと」そうだな…より仲良くなれるような状況じゃないといけないわけだから…。「えっと、二人きりで、できれば誰にも邪魔されないようなところで、長くいてもお互い苦じゃなくて、できれば夕方になったら薄暗くなるところで、会話に困らないところ」
「とんだ縛りゲーだよ!」姉は叫ぶようにして言ってから、しばらく悩むと、手のひらを打った。「あ、一つあった」
「え、どこ?」
「うち」
「うち?瀬戸内?」
「何でだよ」
「じゃあ内浦だ」
「違うわ」
「じゃあどこよ、要領えないな」
「だから、うち!この家!」
「あ、成る程」私は頷いてから、「え、何?招待するってこと?」
「うん、そうだよ。それが一番楽、もとい、条件を満たす」
「確かに」楽だ。
「で、問題はどっちの家か、だよね?」
「お父さんの家かお母さんの家か?」
「じゃなくて、柏木さんの家か私達の家か、ってこと」
「あー、まあその辺は話の流れで決めるか」
「そんな行き当たりばったりな…」
疲れた様に言う姉をしり目に、明日が楽しみになって、にわかに笑顔がこぼれそうになった。佳純先輩を私の家に招待、もしくは私が佳純先輩の家に行くのか。
それは出かけることにならないのではという事実は置いて。
とても、心が揺らいだ。
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