第6話 同級生

 私は今日も、スキップしながら家を出る。最近は暑くなってきたから、先輩に会うころには少し汗ばんでしまっているけれど、それでもスキップせざるを得ない。先輩のもとに早く着きたいってこともある。しかしそれだけではなく、心が弾んで仕方がないのだ。何と言うか、嬉しさの表現、かな。先輩と初めて話した時は吐きたいなんて衝動に駆られたけど、それと同じようなものだ。嬉しさを表現するために、私は毎朝スキップしている。誰に見せるわけでも無い、その行為はただの自己満足で、先輩のもとにつく前にはやめているから、本当に自分だけに向けた表現だ。自分はうれしいことを知っているのに、なんでこんな表現したいんだろ?そう思うと不思議だけど、ともかく、スキップは良いものだと思う。まあ、道行く人に変な目で見られるのが若干心苦しいのは否めないけど、吐くよりましだよね。

 先輩に話しかけてから数週が経っていた。その時は自己紹介するだけに終わったけれど、あれから結構親しくなったと思う。私の感覚としては。先輩は自分から何かを話すようなことはしないから、先輩自身がどう思っているのかわからない。だから、自分の感覚に依存する。自分の感覚で言わせてもらえるなら、絶対距離は縮まっているはず。絶対、はず。確証があるのかないのか。まあ、少なくとも私のことを疎ましくは思っていないと思う。そう信じたい。

 少しすると、先輩の後ろ姿が見えてきた。少し猫背で、下を向きながら歩いている。いつもの佳純先輩だ。いや、正確に言うなら違うな。今日は半袖だった。それに、ヘッドフォンを首に巻いている。いつもは装着して何かしら音楽を聴いているのに。どうしたのだろう。

 私は静かに隣に付いて歩いた。落ち着く。やばい、スキップが出そう。もしくは吐きそう。どちらか、どちらかをやらなければやばい。何がどうなるのかと、最近は気になるところだけれど、どちらかをやらずにはいられない。どうしよう、どうすれば良いのだろ?解らない、解らないから、とりあえず佳純先輩の横顔を見て落ち着こう。そう思い、佳純先輩の方を向く。佳純先輩は文庫本を読んでいた。綺麗だ。二重の目はまつ毛が長く、適度に大きい。瞳は黒目が大きく、色は少し茶色ががっていて、瞳孔が解りやすい。それに、眉毛も整えているのか、バランスが取れている。鼻筋が通っていて、色気があり、唇は薄く、少し開いているのは可愛らしい。それだけ集中しているのだろう。あ、笑った。面白いシーンだったんだろうなあ。先輩はこんなふうに笑うんだな。初めて見たかも。改めてよく見ると、とても整った顔立ちをしていて、すごく何と言うのだろう、見惚れてしまう。

 というか、まったく落ち着けないのだけれど。どうしよう。ここでスキップしたら、私はともかく、佳純先輩までやばいやつだと思われかねない。どうしよう、吐く?吐いちゃう?

 悶々としていると、風が頬を撫でたのをきっかけに、隣の佳純先輩の存在をひしひしと感じ始めた。見なくても彼女のやっていることが解る。自然と佳純先輩の歩幅に合わせ、仕草を真似、佳純先輩とつり合う様なふるまいを心がけた。あ、今前を確認した。あ、今転びそうになった。あ、今汗をぬぐった。あ、今体を震わせた。

 「びっくりした」あ、今何かにびっくりしたみたいだ。「恵美、黙って隣にいないでよ」あ、何かと思ったら私だった。

 ……私か。私は慌てて佳純先輩に向き直って言った。「ご、ごめんなさい!おはようございます」

 「はい、おはよう」佳純先輩は疲れた様に言って、私の頭を撫でた。

 ちょうど良いところにあるのか、佳純先輩はよく私の頭を撫でる。最初の頃はいちいち動揺していたけれど、今はもうすっかり慣れた。

 「あの、佳純先輩」私は至って冷静に言う。

 「どうした?」

 「……吐いていいですか」

 「どうした!?」

 あ、佳純先輩大きい声出した。珍しい。大きい声も素敵だな。綺麗で、それでいて可愛さも含まれていて、耳触りの良い声だ。

 「いや、どうした。何故急に黙る。具合悪い?」心配したように佳純先輩は私を見た。

 あ、心配したような声も素敵だな。……じゃなくて。

 「大丈夫です、大丈夫。ちょっと気が動転しただけです。ごめんなさい」私は急いで言った。佳純先輩の気を煩わせてはいけない。佳純先輩が気を遣わなくていいような空間を作りださなくては。

 「そう?ほんとに大丈夫?」なおも心配する優しい佳純先輩。

 やばい、嬉しすぎて吐きそう。「いえいえ、大丈夫です。至って普通です」それから冗談のつもりで、「私はいっつもおかしいじゃないですか」と加えた。

 「あー、確かにそうだよね。大体いつも変なこと言ってる。ごめん、騒ぎ立てて」佳純先輩は納得して、文庫本に戻った。

 納得しちゃうのか。まあ、冗談で言ったから、額面通りに受け取られて精神病院でも紹介されたらそれはそれで困るけれど、納得されるのもそれはそれで。何がしてほしかったのかと言うと、笑って欲しかったのだけど。納得した顔も素敵だから良いのだけれど、私の手でどうにか笑わせられないだろうか。小説では笑っていたのに。あんな紙切れに負けたくない。

 「佳純先輩って、何が好きなんですか?」私は試しに訊いてみた。この程度の質問を今までしてこなかった自分に呆れながら。

 「んー?」佳純先輩は気の無い返事をする。文庫本に集中して全然聞いてない。「ジャンルは?」二分くらいして言った。

 「歌手、とかですかね」

 「歌手かー」佳純先輩は興味なさげに言った。「特には」

 「え、いっつもヘッドフォンで何聴いてるんですか」

 「えっと、おにぃ…兄貴が持ってるCDを。洋楽が多い。グリーンデイとか、アイアンメイデンとか」佳純先輩は思いだすように言った。んー知らない。

 というか、佳純先輩一人っ子じゃなかったんだ。いや、別に悪い意味では無く、単純に兄弟がいるのを想像できなかった。これは新情報だ、いえーい。そして家ではお兄ちゃんと呼んでいるみたいだ。やばい、萌える。こんな、こんなクールな佳純先輩がお兄ちゃんとか、見てみたい。見てみたい。見てみたい(敢えてもう一度)。

 悶々としているうちに会話が終了してしまった。佳純先輩はまたも文庫本に没頭して、口が半開きになっている。可愛いなー。その口からお兄ちゃんって言っているところを見てみたいなー。笑わせることについての情報を仕入れるのには失敗したけれど、これはうれしい情報を手に入れた。今日はこの辺で良いだろう。満足満足。

 ふと、佳純先輩の手に注意が行った。片手で文庫本を持っているため、右手はだらりと下げている。利き手は右手のようなので、何かあった時対応するためかもしれない。さすがである。

 それにしても、綺麗な手だ。白く、すらりと細長く指が伸びている。爪も短いし、形も良い。大きくはないけれど、しなやかで、上品な手だった。ピアノとかやってたのかな。指先を見る限り少なくとも弦楽器ではないだろうけど、骨ばってるし、現役のピアニストなのかも。

 握ってみた。あ。間違えた。違う違う、私は実際に触れたいとかじゃなく、いや触りたくはあるんだけど、しばらくは眺めて楽しもうかなーって思っていたから、とりあえず今は握るつもりはなくて、こんな、こんな、おこがましいことをやるつもりは無かった。何だろうか、この禁忌を犯している感。早急に土下座したい気持ちだ。謝りたいというより、ありがとうございます、みたいな。いやというかなんか、なんかもう嬉しすぎて死ぬ。

 佳純先輩は少し驚いたようにその方を見たが、そのまま文庫本へ顔を戻した。え、何、良いの?手、繋いじゃって良いの?本当に?私、今手汗凄いよ?それでもいいんですか?

 双方黙ったまま、何分か歩き続ける。今日、私は死ぬかもしれない。今日死ななかったら、明日から毎朝手繋いで通うくらいの勢いなのだけれど。あ、それなら死なない方が良いな。佳純先輩もやぶさかじゃないようだし、私は手を繋ぎたいし、これ、ウィンウィンだよ。皆幸せだよ、この状態。

 そんな風に嬉しさに浸っていたら、佳純先輩は耐えかねたように手を離した。

 「暑い」ぶっきらぼうに呟いた。それが理由らしい。

 僥倖である。だって、気温が高く無かったらそのまま繋いでいて良かったってわけでだよね。ってことは、冬は全勝じゃないですか。夏は、まあ我慢しないといけないけど。それでも私にとってこの上ない幸せだ。

 佳純先輩が私と手を繋ぐことを拒まないということは、私とそれだけ近くにいても不服じゃないということになる。佳純先輩から初めて、意思表示をしてもらった気がする。佳純先輩が私のことをどう思っているのかが、少し解ったような、そんな胸の高鳴りを感じた。

 「ご、ごめん。暑くなければ、いつでも手を繋いであげるから」黙った私を悲しんでると思ったのか、佳純先輩はそう付け加えた。そしていつものように、私の頭を撫でる。

 「気にしないでください」私は笑顔でそう返した。それに、暑くて手を離してくれなかったら、やばかったしね。今度こそ吐くところだった。嬉し吐きするところだった。「そういえば佳純先輩、今日はパーカーじゃないんですね」

 「まあね。というか、あんな暑いもの今日は着ないでしょ、普通に考えて」

 「でも、昨日も同じような気候でしたけど、着てましたよ?ブレザーの下にパーカー」

 「うん。死ぬほど暑かった」

 「そうなんですか。じゃあ辞めればいいのに」

 「ちょっと、衣替え明日からだし、今年は冬まで着られないことを考えて、着てしまった」

 「まあー」うふふ、と私は笑った。佳純先輩も、つられて苦笑いを浮かべる。不器用な笑い方も、様になっているなあ。やはり今日は、なにかあるかも。


 朝からとんでもない幸運に巡り合えたので、教室に着き、着席してもしばらくは顔を上げて夢想していた。このまま仲良くなれたらどうだとか、先輩と出かけたらどうだとか、先輩は何を食べるのかなとか、先輩についてのことを悶々と、滔々と。まあ、そんな状態になるまであと何日必要かはさておいて、私はクラスに入ってもそんな風に期待を込めて妄想していた。

 けれど、何かが足りない気がした。確かに今日、佳純先輩について新しいことを知れたし、距離も縮まったと思うし、どう思っているのかも少し解った。けれど、なにか決定打にかける。何だろう、と考え込んだ。窓の外を見ながら、さっきのことを順に思いだす。不味い、吐こうとしたことしか思いだせない。なにかないのか。そう思って、私はさらに記憶を手繰った。

 そのせいだろうか。「ねえ、恵美さん、何か良いことあった?」彼女の気配に気が付かなかったのは。

 「ぅんのわ」悲鳴ともつかないそんな声を出し、私はいすの上でのけぞる。クラスの視線が一斉に突き刺さるが、気にしないことにした。「ちょっと、近付く時は気配を消さないでよ」忍者か、と内心で言った。もしかすると、佳純先輩も私に対して同じことを思ったのかも。

 「いや、別に消したつもりは無かったんだけど。恵美さんが気付かなかったんだよ」彼女は困ったように言った。

 「ああ、うん…ごめん」私は疲れた様に言って見せる。まあ、本当に疲れているのだけどね。心臓に悪い。

 「え、恵美さんが謝った。ありえない。ほんと、何があったの?」

 「ありえないって。あなた、何気に毒舌だよね」

 「いつもはそんなことないんだけど、恵美さんのことになるとどうもね」

 「私のことが嫌いなのかな」

 「いや、好きだけど」

 こういうことを平気で言うから、この子とは少し関わり辛い。まあ、これを言い訳に面倒なやつと関わりを絶っているだけなんだけどね。

 でも、多分それじゃ駄目だ。

 「それで、どうしたの?」彼女はしつこく訊いてくる。

 「えっと」先輩のことを話そうかどうするか、少し迷ったが、多分私は第三者目線から見たらおかしいのかもしれない。最近になって気付いたけれど、先輩と手を繋いで吐きたいってどう考えてもおかしい。だから、私は代わりに言う。「今日さ、放課後でかけない?」

 彼女は絶句したまま動かない。彼女の目の前で手を振ってみても、何の反応を示さなかった。ヘンジガナイ、タダノシカバネノヨウダ。

 「嫌ならいいよ?」

 「じゃない!そうじゃない!そうじゃないの、恵美さん!」彼女は必至の体で言った。

 「うるさいよ」

 「うう。ご、ごめん。なさい」彼女はしゅんとした様子で言ってから、「行きたい、是非」

 「そう。良かった」私は頷く。

 先輩と私の間にある、少し欠けた部分。それは、会話だろうと結論がついた。確かに何も話さずに隣にいるだけでも充分に幸せなのだけれど、それではこれ以上の進展は望めない。仲良くなるには会話が不可欠だ。

 だから、この子で練習することにした。この子と出かけて、会話ってものがどういうものか、先輩の時に混乱しないように練習するのだ。酷いかな?そんなことないよね。

 「でも、何で?」落ち着いた様子の彼女は訊いた。

 「んー、あー」出かける相手に面と向かって、先輩と仲良くなりたいから、と言うのも失礼だよね、やっぱり。「えっと、あなたと仲良くなりたいから?」

 「う、おお、そうなんだ」彼女は面食らった様子で頷いた。「そっか。じゃあ、どこ行く?どうする!?」楽しそうに言う彼女を見て、私も楽しくなれそうだと密かに思った。


 一時間目終了後。「ねー、やっぱりさー、時間的になんか食べる感じかなあ?」

 「そうだね、それが良いかも」


 三時間目終了後。「ねー、恵美さんはさあ、今日は何時までオーケーなの?」

 「そうだね、それが良いかも」

 「いや、返答になってないし」

 「あ、ごめん。えっと、基本何時まででも。門限もないし、塾も行ってない」

 「なるほど…。好きなとこ行けるね」

 「そうだね、それが良いかも」

 「……」


 昼休み中。「ねー、恵美さんって何が好きだったっけ?」

 「そうだね、それが良いかも」

 「基本はそれで返すの?」


 帰りのホームルーム前。「ねー、恵美さんはどこ行きたいとか希望ある?」

 「そうだね、それが良いかも」

 「…恵美さんは私のことが嫌いなの?」


 そうして、放課後になった。私達はまだ教室に残って、出かける場所について相談していた。

 「放課後になっちゃったじゃないの!恵美さんがまともに相手してくれないから」

 「そうだね、それが良いかも」

 「ほら、それ!もう、恵美さんがそれでしか返さないからアレルギーになっちゃったよ!それ聞いたらなんというか、胃のあたりがきゅってなるよ!」

 「アレルギーを私のせいにされてもな」

 「いや、恵美さんのせいだから!」

 「どうどう」

 「なんか私が勝手に白熱しているみたいに…まあ、良いけど。それで、本当にどうするの?放課後になっちゃったけど」

 「んーなー」私は首を捻って考える。

 そう言えば、お姉ちゃんに佳純先輩と遊びに行けるよう、おあつらえ向きな場所を偵察しておくようにお願いしていたのだった。お姉ちゃんに友達と極力出かけてもらって、なんかいい感じの場所を教えてもらっていたけど、折角ならそこには佳純先輩と一緒に行きたい。お姉ちゃんに報いたいってこともあるけど、なんかほんとにいい感じだったから。まあ、この子と行きたくないってわけじゃないんだけどね。

 あと、少しくらい自分で調べたいというのもある。

 「あ、そう言えば」彼女が声を上げる。

 「どした?」

 「あ、今恵美さん可愛かった」ほんと、この子は。

 「いいから」

 「えっとね、駅の周辺におっきめのショッピングモールができてね」

 「んな!」

 「え、何。どうしたの?」

 今、佳純先輩の身に良からぬことが起こった気がする。良からぬことというか、面倒なことが起こった気がする。具体的には、そんなに仲の良くない四人で出かけるような。何だろう、気になるけれど、今から二年の教室に行くのもアレだし。明日訊いてみようかな。

 「いや、何でもない」私は誤魔化してから、「ショッピングモーりゅね。うん、いいじゃない。行こう行こう」

 「今噛んだよね?」

 「そんなわけない」


 ショッピングモールは、平日にも関わらず混雑していた。私達のような学生はあまりいない。何やってんだ、こいつら。ここはあまり食品が売っていないし、売っていたとしてもカフェだし、この時間帯に混み合うようなところでは無だろう。そんなに服や化粧品が欲しいのだろうか。いや、それにしては男性もいるし、本当、何しているんだろう。

 「帰りたい…」思わず口をついた。

 「絶対帰らせないからね。誘ったのはそっちだし」彼女は厳しい口調で言った。

 「分かってる。ここで帰ったら何のために頑張ったかわかんないし」

 「そっか。安心した」彼女は嬉しそうに笑った。

 そう言えば、この子のこんな表情を見たのは初めてかもしれない。いつもは困惑したような緊張したような、微妙な笑みを浮かべながら私と話すから、なんとなく疎ましかったのだが、今は本当に楽しそうだ。誘った時の嬉しそうな様子といい、本当は魅力的な人間なのかもしれない。

 まあ、今の一瞬で何かが変わったわけでは無いけれど、なんか、好印象だ。「そういえばさ」

 「んー?」

 「なんて名前だっけ」

 「誰がー?」

 「あなた」

 「ぐは」彼女は大袈裟に反応する。鉄砲でも打ち込まれたかのような仕草をしてから、「初対面の時言ったじゃんかー。というか、幼馴染だったじゃんかよー。憶えててよー」残念そうに言った。

 「んー、興味なかったからなあ。まあ、当時は解らないけどね」私は思いだそうとしたが、やはり無理だった。本当にそんなことあったのかな。

 「じゃあ、今は興味あるんだ、私の名前?」

 「うん。一緒に出かけているわけだし、知っとかないとと思って」

 「なるほど。んーちょっと複雑だけど、まあいいか」彼女はぶつぶつと言う。「改めまして、神谷沙織です」

 「そっか。いい名前だね」私は感想を済ませて、「じゃあ、どこに行く?」

 「名前、呼んでくれないの?」うう、沙織は呻く。

 「あー、はいはい。じゃあ、どこに行く、沙織?」

 「し、下の名前で呼んだ…!ウルトラレアだあ」

 「え、駄目だった?」

 「全然!最高!」

 「最高って。ちょっと意味わかんないけど」はは、と愛想笑いした。

 「おー、笑った。恵美ちゃんが笑った」

 「そりゃ、笑うさ」私は言ってから、歩きだした。そう言えば、お姉ちゃんと前来たとき、なんかおしゃれなカフェができていたような。

 「待って待って」沙織が笑いながらついてきた。

 

 果たして、カフェでは無かった。いや、カフェのようなカフェでは無いような、和を前面に押し出した喫茶店だ。おかしい、この場所は確かにオシャンティなカフェだったはずだ。どうした。一か月もしたら潰れるもんなのか。

 「まあ、良いじゃない。入ろう、恵美さん」沙織は私の手を取って、中へ入った。

 内装も概ね予想通りだ。何かこう、うるさい。音量ではなく、目に入り込んでくる景色が、うるさい。まあ、悪くはないんだけどね。案内されたのは、入口のそばだった。私は入口から背を向ける形で、沙織と対面している。

 「なんにしよっかー?」

 「んー」

 「そう言えばこの前さあ、帰り道に猫見たんだよね」沙織は急に話しだす。何を頼むか決めているのか、と思ったが、今回の目的は会話である。ここは、話を聞くのがいいだろう。

 「おー」

 「そんでね、その猫さんね、黒猫だったんだよ。だから、夜道じゃなんとなく解り辛くってさ、危うく轢きかけたよ」

 「そりゃ危ないな」

 「黒猫って、目の前を通ると不幸になるって言うじゃない?でもさー、そんなわけないよね。あんなに可愛いのに、不幸になるわけないよ。というか、見ただけでちょっと幸せになるよね」

 「あー、うん」

 「でもねー私猫アレルギーなんだよー。だから飼えないんだー。猫好きなんだけどね。恵美さんは、確か鳥飼ってたよね?」

 「よく知ってるね」

 「まあ、昔はかなり仲良かったからね。だから今、昔の関係を取り戻そうと奮闘しているわけさ」

 「なるほど」

 「本当に、毎日一緒にいたのに、なんで忘れちゃったの?」

 「ごめんね」

 「まあ、良いよ。これから仲良くなっていけばいいもの。あ、そういえばさ、あれ覚えてる?あの、恵美さんの家に呼んでもらった時の」

 「なになに」

 「あ、今恵美さん可愛かった」

 「いいから」

 「えっと、飼ってた鳥を触らせてもらった時に、指をつつかれちゃってさ」

 「そうなんだ。それは申し訳ない」

 「いいよいいよ。たぶん知らない人が急に触ろうとしたからびっくりしちゃったんだと思うし。それでね、その時血が出て、絆創膏もらったんだけど、その絆創膏が可愛くってさー」

 「可愛い絆創膏何て持ってたかな」

 「持って無かった?」

 「忘れたかな」

 「もらったんだ、猫の可愛いやつ。だけど、可愛くって結局使えなくってさー。自分の家に帰って普通のを付けたって言う」

 「あらあら」

 「あ、それで、どれにするか決まった?」

 「いや、まだ」というか今のマシンガントークの間に決められるものなんだろうか。「沙織は?」

 「まだかな」えへへ、と照れたように笑ってから、メニューを改めて眺めた。おー、とか、わー、とか感嘆の声を上げている。「あ、見てこれ、かき氷だって。これにしようかな。でもな、抹茶の味ってあんまり好きじゃないんだよねえ。なんか苦くって。香りはいいんだけどさ、なんかねえ。あ、でも苺と練乳の味がある。こんな和風の店でこれはどうなのよ。もっとなんかあったでしょう。まあ、思い浮かばないけど」

 「そだね」やばい、むっちゃ喋る。何だこの要領の得ない会話では無い言葉の垂れ流しは。もっとこう、返事させてくれ。

 「うん、やっぱりこれにしよう」苺のかき氷を指して言った。「恵美さんはどうする?」

 「あーえっと」メニューをろくに見ていなかった私は、すぐには答えられなかった。もそもそとメニューを眺める。

 と、そこでどこかから「白玉」と言う声が聞こえた。白玉。シラタマ。シラタマと言えば、ポルノの元ベーシストだな。ラックとか渦とか結構好きだったんだけど、今何やってんだろ。どうも活動していないみたいだけど。一人になったあとの曲もいくつか聴いたけど、短調多かったなあ。なんかあったのかしら。

 「白玉、食べたいの?」沙織さんは首を捻った。

 「あ、声に出てた?」私は口を抑えて言った。

 「まあ。白玉もなかなかおいしそーだけどねえ。どうしようかなー」

 「じゃあまあ、私は白玉で」私は指差して言った。

 それより、白玉って言った声誰かに似ていたような。


 その後すぐに帰ったので、帰りはそれほど暗くならなかった。夕焼けの茜色に照らされた道を、沙織と並んで歩く。沙織は相変わらず他愛もないことを滔々と喋って、私はそれに相槌を打った。この時間も、慣れてしまえば心地良いかもしれない。

 沙織の話に耳を傾けながら、今日は沙織が喋ってばかりで会話らしい会話はあまりしていなかったな、と思う。会話の練習、みたいなものをやろうとしたのだけど、結局、相槌の練習になってしまったかも。いや、佳純先輩との会話に限って言うなら、成果はあったか。佳純先輩がこんなに喋るわけがないのだから、私が沙織に倣って、愚痴だったり嬉しかったことだったり、他愛もない私の生活を知ってもらえばいいんだ。佳純先輩はそれに相槌を打つだけで良い。それだけで、私は幸せなんだから。

 でもなんか、佳純先輩、相槌を打つのが面倒になりそうだな。

 不意に、左手に温度を感じた。その方を見ると、沙織が私の手を握っていた。

 「あ、あの、嫌、だった?」沙織が顔を赤らめながら訊いた。

 「そんなことないよ」私は言いながら、手を離した。「暑くなければね」と、佳純先輩の真似をする。

 「うう」沙織はうめいた。それから、こちらに向き直る。「今日みたいなこと、私以外の子にやっちゃ駄目だからね」

 「今日みたいなこと、っていうのは?」

 「えっと、つまり、名前を忘れてたり、それが良いかもとしか返さなかったり」尻すぼみになって言った。

 「もしかして、気にしてた?」それらのことに、他意はなかった。ただ考え事をしていたり、単純に忘れているだけだから、気にしなくてもいい。けれどたぶん、それで割り切れるほど甘くできてはいないんだろう。「ごめんね、沙織」

 「いや、全然気にしては無いんだけど、ちょっと悲しかったかな、って」

 「そっか」私は返事してから、「沙織には良いの?」

 「え?」

 「だから、そういうこと、沙織以外の人にやっちゃ駄目なら、沙織にはいいのかな、って」

 「それは」沙織はどもってから、深く息を吸った。「……好き、だから」

 「え」

 「じゃあ、私こっちだから、じゃあね、恵美さん」沙織は少しバランスを崩しながら、その道を駆けて行った。

 沙織は確か、そういった好きとかなんとか言うことに抵抗が無いタイプだったはずなのだが、今のは何なのだろう。だからこそ、敬遠していたのだけど、なんか、今の色っぽかったな。顔もやけに赤かったし、声も若干上ずっていた。

 「まあ、夕方にはいつもああなるのかもしれないしね」呟いてから前を向くと、夕日が爛々と光り輝いている。「眩しい」と、顔を歪めた。

 何だかわからないけど、とりあえず今日は楽しかったな。


 「お姉ちゃんさ」帰宅し、姉が帰ってきたのを見計らって、訊いた。「もしかして、あのショッピングモールにいた?」

 「ぎくっ」お姉ちゃんは解りやすい反応をする。「まっさかー、そんなわけないじゃない。まっさかー」

 「いや、別にいてもいいんだけど……その反応、まさか佳純先輩と、とかでは無いよね」

 「ぎくっ」またも彼女は目を伏せた。「まっさかー、そんなわけないじゃない、柏木さんと一緒になんて、そんな、まっさかー」

 「やっぱり……あの声誰かに似てると思ったら、お姉ちゃんか。じゃあ、もしかして、お姉ちゃんもあの和風なカフェに?」

 「ぎくっ……って、姉の声くらい即座に判別してよね」開き直って、ぷんぷん、と怒った様子で言った。

 「ってことは、佳純先輩もその場にいたわけ?」

 「うん、まあ」

 「なんか喋った?」

 「ほどほどに。でも、柏木さんあんまし喋んないしなー」と、そこで彼女は顔を蒼くした。「あ」

 「どうしたの?」

 「いいいい、いや、ななななんでもないし」

 「分かりやすいというか、そこまで来たらもうわざととしか思えない反応だよね。何があったの、言いなさい!」

 「いいいい、言わない!」お姉ちゃんは室内を逃げ回って抵抗した。

 「佳純先輩に何かしたの!?」

 「何もしてない」って言ったらウソになる、と付け加えた。

 「吐けえー!」

 「女の子がそういうこと言わないの!」

 結局この日は、お姉ちゃんは口を割らずに終わった。何があったのか、凄い気になる。佳純先輩に直接訊くのもいいけど、言いにくいことだったら、申し訳ないし。うーん。

 とりあえず、お姉ちゃんには裁きを食らわせよう。

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