第2話 先輩

 私には好きな先輩がいる。恋愛感情かどうか、微妙なところだ。私には姉がいて、姉と同じようか感覚で好きなのか、それとも別種のものなのか、人生経験の足りない私は、判断できなかった。確かに、その人を見るたびに、綺麗な人だ、と見惚れたりする。けれど、それはただの事実に過ぎない。猫を見て可愛いと思うのと同じことだ。私は猫に恋愛感情を抱かないから、その先輩に抱く感情について、明言することはできないのだ。ただ、一つだけはっきり言えることは、私はその先輩と仲良くなりたいと思っていることだ。同級生に対してそんな感情を抱いたことは無いけれど、この人に関して言えば、同じ道を通っていると発見してから二日目でそう思った。

 その人は毎朝同じ道を通っていて、私はその後ろをいつも歩いている。私はいつもその人をじっと眺めて、今日もがんばろう、と思う。それが毎朝続くのだ。まあ、特に頑張ることなんて無いけれど、今日も死なずに生きていられるのは、この人おかげといっても過言じゃない。この人を発見する前まで、生きる理由なんか特になく、普通に生きて居られたのに、なんでこんなふうになったんだろ?

 「おはようございます」そんな風に挨拶をした。ヘッドフォンをしていたので、声をかけようか迷ったが、結局肩を叩いて言った。

 ゆっくりと振り返る彼女は、何故か安心する雰囲気を放っていた。髪が肩まであり少し茶色っぽくて、肌が透けるように白くて、目が切れ長で、背が高くて、いつも気怠そうで、腰が適度にくびれていて、手足が長くて、唇がプルプルしていて、胸が大きくて、制服のブレザーの下にパーカーを着ていて、あまり笑わないクールな人で、鞄を肩から掛けていて、いつも音楽を聴いていて、たまに文庫本を読んでいて、二年生で、きっと彼女は優しい人だ。

 「おはよう」彼女も返した。そのことが嬉しくて、心臓が強く鐘を打った。子供の頃に行った、遊園地を思いだす。「で、あなたはどなた?」

 先輩と私は、話したこともない他人だった。先輩だと分かったのも制服のおかげだし、名前も知らないような正真正銘の他人だ。私が勝手に観察しているのだけれど、気持ち悪いかな?そんなことないよね。

 「私、いえ、わたくし、恵美って言います。一年です」私は少し頭を下げる。あんまり下げたらせっかくの先輩の顔が見えないので、視界に入る程度で。

 「一年って言うのはタイを見たらわかるよ」ゆっくりとした口調で先輩は言った。思った通りの綺麗な声で、しばらくうっとりとしてしまう。「もしもし?恵美?どうした」

 おいおいマジかよ。私はまたも思考停止する。名前で呼んでもらったー。やばい、これはやばい。どうしよう、顔が赤くなってきた。逆に吐きそう。緊張とは違うけれど、嬉しさを表現したい。そのために吐きたい。

 そう思ったが、よく考えたら下の名前しか教えていなかった。

 「?」先輩は動かない私に首をかしげ、「じゃあ、私行くから」といった。

 「あ、ちょっと待って」私は慌てて言った。先輩は振り向き、こちらを見ながら先を進んでいく。まるで熊に遭遇した時のように、こちらを凝視して、後ろ歩きで離れて行く。危ない、と思い、先輩のところまで行き、腕をつかんだ。「あの、あの、名前を教えてください」今日になって話しかけたのは、そのためだった。名前なんてどうでも良かったけど、日記にいつまでも先輩としか書けないのはつまらないので、思い切って話しかけることにしたのだ。これがきっかけに仲良くなれたらいいな、という淡い、そして青い期待も込めて。

 先輩は嫌な顔をする。触られたことに関してか、それとも名前を訊かれたことに関してか、どちらにしても私は切ない気分になる。私はこんなに好きなのに、どうして先輩は私は邪険にするのかと、不思議だった。

 「柏木佳純」ぽつりと呟いた。かしわぎかすみ。いい名前だ。特に、すみ、というところが良い。先輩の透明感を如実に表している。「もういい?」

 「はい。はい!ありがとうございます」私は何度もうなずいた。BPM180くらいはあったんじゃないかな。ポルノのアポロと大体同じ速さだったと思う。

 「はいはい。じゃあね」佳純先輩は私の頭を撫で、すたすたと早足で先を行く。

 頭に残る佳純先輩の手の感触がいつまでも消えない。息が荒くなる。はあはあ、とかなり気持ち悪い反応だけど、誰も私を見ている人なんていないはずだから、今くらいは感情に忠実でいさせてほしいな。

 

 教室に入ると、いつも通りにざわついていた。友達のいない私としては、正直言って不快な音だ。友達とくだらない話をしなければ有罪であるかのように、まあそんなことは誰一人として言っていないけれど、そんな圧力を感じる。私は性格がひん曲がっているからそんな風に感じるのだろうね。

 ふう、と意味もなくため息を吐いて自分の席に座る。それから、眠っている振りをして机に突っ伏す。

 「あ、おはよ、恵美さん」隣の隣の、その斜め前の席に座る彼女は3日に一度くらいの割合で挨拶をかましてくる。少し鬱陶しい。「あのね、昨日ね」

 「昨日の話は昨日に置いて来て下さい」私は顔を上げて言った。

 「?どういう意味?」

 私は何も言わずに顔を戻した。

 「ねえ、恵美さん態度悪いよ?それじゃ、友達もできないよ?」

 「初対面でいきなり下の名前で呼ぶやつに言われたくないな」

 「初対面じゃないんだけどな」

 彼女はどうやら、私と昔会っているらしい。このクラスになってすぐのとき、そんなことを言われたのだ。もう覚えてないので真偽は怪しいが。そんな記憶が無きにしも非ずだが、高校までに色々なことがあったのでもう憶えていない。

 「まあ、その内思いだしてよ」そうまとめて、彼女は戻って行った。

 そのことで、緊張がほぐれた。一気に体の力が抜け、本当に寝そうだ。

 どこかに佳純先輩みたいな綺麗で格好いい人はいないかな、とぼんやりと考えた。朝だから、ぼんやりと。

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