11  敗北伯の苦悩

「ヴィンス……なるほど、ゼルファナス卿はアルヴェイア河沿いにメディルナスにむかって一気に東進してくるはらづもりか」


 ネスファーの顔は、異様な興奮のためにか赤く染まっていた。


「ヴィンス……おお、うまし酒を醸す豊饒のヴィンス、酒神タリアンによみされし地よ」


 そう言いながら、ネスファーはヴィンス産の赤葡萄酒を銀色の盃に注いでいた。

 呑みすぎだ、とネルトゥスは思う。

 ここは、青玉宮でもネスファーに与えられた一室だった。

 調度は整えられており、青い色漆喰の塗られた壁には精妙な細工模様が彫り込まれている。庶民からみれば贅をこらした部屋に見えるだろう。

 卓上には、軽い食事が並んでいる。大兎の腸詰めに白パン、チーズ、そしてアルヴェイア河の小魚の揚げ物といったものだ。

 とはいえ、これらも現在、食料品の価格が高騰しているメディルナスにあっては、贅沢なごちそうである。

 いまのメディルナスには、地方からの難民が流入を始めている。すでにメディルナス本来の人口を超え、城壁の外にまでにわかに街が生まれ始めていた。

 治安もだいぶ、悪くなっている。

 また、メディルナス郊外では諸侯たちの兵たちが集まっているが、もともとの貴族同士の対立が兵士たちにまで及び、連日、刃傷沙汰が続いていた。

 一応は国王派についた貴族同士とはいえ、みなが仲良し、というわけでは決してないのだ。

 すでに王都は混沌の坩堝へと化しつつある。

 本来であれば、ここは多少は強権的な力を発動してても、まず治安維持にあたるべきだとネルトゥスなどは思うのだが、誰も進んでそんな面倒なことをしようとはしなかった。

 こうした局面でもっとも力を発揮するはずのセムロス伯ディーリンが、あのていたらくである。日に日に状況が悪化しつつあることをネルトゥスは肌で感じていたがもう、どうしようもないところにまで事態は移行しつつある。

 果たしてエルナス公の軍勢に勝てるのか、という不安もあるが、それ以上にそこまで国王派、王軍がもつか、というほとんど冗談のような心配までせねばならない始末なのだ。

 さまざまな噂がメディルナスでも流れているらしい。

 エルナス公の軍勢はメディルナス市民を全員、虐殺するので徹底抗戦に備えよという者もいれば、逆にエルナス公は国王派に協力した者だけを殺すつもりだ、という者もいる。

 明らかになんからの意図をもって流されたらしい噂の他に自然発生的なものまで、とにかく噂が噂を呼び、収拾がつかない有様になりつつあるのだ。

 そしてそれは、なにも庶民の間に限った話ではない。

 いつしか猜疑心や疑心暗鬼は青玉宮のなかの人々の心にまで及び始めていた。

 どこどこの伯爵はエルナス公の間者ではないか、またある貴族は兵は率いてきたがいざというときにエルナス公側に寝返るのではないか……そんな話がいまこの瞬間も、青玉宮のあちこちで語られているだろう。


「おかしな話だ……我々は、確かナイアスを陥落させて……『勝っていた』はずではないのか?」


 酔眼のまま、ネスファーは自嘲めいた笑みを浮かべた。


「ネスファー殿。貴殿はいささか……」


「僕は呑みすぎかな?」


 ネスファーはそう言って口の端をつり上げたが、目は酔漢特有の、異様な光を帯びていた。


「でもねえ……まわりからあんなふうに見られると僕だって傷つくんだよ。ネスファーとネスヴィール……双子の兄弟、一心同体! そう言われていたネス伯家の双子が……」


 やはり、相当にネスヴィールの行動が堪えているらしい。

 とはいえ、ネスヴィールは公然と王家に反旗を翻したわけではない。あくまで、レクセリアと嵐の王のリューンとかいう者が率いる兵たちを受け入れただけである。

 だが、ネスヴィールが「勝手に」そんな判断を下したことが、ネスファーには衝撃なのだろう。

 逆にいえば、いままでは二人は緊密に連絡を取り合っていたのだろうか。

 この時代、遠距離での通信では、なんかの魔術的手段をとるのが通例である。

 もっとも一般的なのが、ネルサティア魔術でも水や風の系統の術者をきわめた魔術師たちによる遠距離通信だった。

 たいていの貴族は、家に代々、仕える魔術師たちを抱えている。かつてに比べ、現在は「魔力減衰期」という時期にあたっているため、魔術師たちのふるう魔術の力は衰えている。

 だが、それでも魔術は依然、社会で重要な役割を果たしていることには変わりないのだ。戦場で大規模な攻撃魔術を運用する時代ではないが、個人という段階では、たとえば魔術師を暗殺者や警護に使うのは一般的である。

 さらに遠距離の通信であれば、青の月ネシェリカの寺院を使うこともまた可能だった。

 ネシェリカは古来より、交易と通信の女神として知られている。ある程度の規模の都市には、必ずこの女神のための寺院があった。

 女神に仕える僧侶たちは、他の「青の月の寺院」と瞬時にして情報をやりとりするとこができる。このため、今回のような戦時では、青の月の寺院は真っ先に抑えるべき目標ともなる。

 とはいえ、青の月の寺院は、特定の勢力に肩入れすることは決してない。彼らは通信の自由と秘密を必ず守る。

 もし女神に仕える僧侶を力づくで従えようとすれば、今度は女神の怒りに触れてその勢力は青の月の秘密を利用した女神の力により通信を行えなくなってしまう。

 このような幾つもの手段により、遠距離との通信は、特に貴族諸侯などは十分に可能である。

 特に今回のような戦時では、通信は重要となる。おそらく、なにかの手段でネスファーとネスヴィールの間でも、そうした手段はあるはずなのだ。

 それなのに、ネスヴィールは無断でネスファーに事を進めたらしい。それが、双子の弟に裏切られたようで、ネスファーにとっては衝撃なのだろう。


「まったく……どうにも幸運を司るエルミーナ女神は、今回は我らには微笑んでくださらぬらしい。ネスの双子の心は二つに割れ、そしてセムロス伯もあのていたらくだ……」


「エルミーナ女神は気まぐれと昔から申しますからな」


 ネルトゥスは吐息をついた。

 事実、幸運と偶然の女神エルミーナは、ネルトゥスのことも嫌いなようだ。フィーオン野での敗戦からこのかた、ネルトゥスは不運続きである。

 ナイアスで勝利したことにより「敗北伯」という不名誉なあだ名は聞かれなくなったはずなのに、また影でいやな噂が聞こえてくる。

 つまり、今回、王軍がどうにも劣勢なのは、ネルトゥスが……「敗北伯」が不運を運んでくるからではないか、というものである。

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