10 戦の風
本来、セムロス伯に招聘された「助っ人」のはずのネヴィオン人がいつまにか青玉宮の実権を握るという、わけのわからないことになっている。
だが、現実とは常にこうして流動するものなのだ。ましてやいまは、内戦が勃発しているのである。
それこそ、一寸先は闇だ。
「しかしネスヴィール殿はなにを考えているのやら」
セヴァスティスが、皮肉げな笑みを浮かべてネスファーを見た。その視線を無視するうようにして、ネスファーは昂然としている。
内心、あるいは兄に無断で勝手なことをして、とネスファーのはらわたは煮えくりかえっているのかもしれなかった。
「ただ幸いなのは、レクセリア殿下はエルナス公を嫌っておられる。殿下が賊軍につくということは、まずありますまい」
ディーリンが低い声で言った。
「だとすれば……ここは、しばらく様子を見ておくほうが得策かと。藪をつついて蛇を出すのも危険です。そもそも、いまレクセリア殿下が引き連れている兵士は、わずか百名ばかりとか。戦局に影響を与えるものではありません」
数だけでいえば、確かにそうだ。
レクセリアがゼルファナスを嫌悪していたのも、青玉宮では知らぬ者もいない事実である。
とはいえ、なにも手をつけずにおくのは本当に賢明なのだろうか。
「しかし、レクセリア殿下は、ネス伯領の野盗の類を集め、兵として調練を行っているという話ですが」
ネルトゥスは、ディーリンに向かって言った。
「らしいですな。ですが、それでもせいぜい五、六百というところでしょう。おそらくは、ネス伯領の治安を維持するための民兵にでもするつもりかもしれませんぞ」
ディーリンの言うことは、一応はもっともらしいのだが、やはりなにか、かつての思考の冴えのようなものは見られない。
「私としては、レクセリア殿下よりもむしろ、ガイナス王よりグラワリア王位を譲られたという……あのリューンという男のほうが気になりますな」
赤鶏の股肉にかぶりつきながらセヴァスティスが言った。
「あの男は、ガイナス王により次代のグラワリア王として認められただけではなく、玉璽も譲られたとか……しかも、なんとリューンなる者、レクセリア殿下の『夫』だという話ではありませんか。本人たちがなにを考えているかはともかくとして……グラワリア諸侯も、おそらく動勢は注視しているでしょう」
確かにセヴァスティスの言う通りなのだ。
しかしまさかフィーオン野でレクセリアの本陣に乗り込んできたあの傭兵が、グラワリア王位を僭称し、いまは王妹となったレクセリアを妻にするなどとは、ネルトゥスは夢にも思わなかった。
だがあの男からただの傭兵とは違う「なにか」を感じとったのは事実である。
「さらにいえば……もう一人のグラワリア王セイルヴァスが、ネス伯領に潜伏しているという噂もあるとか」
セヴァスティスは愉しげに笑った。
「だとすれば、面白いことになりますなあ。なんと、ネス伯領にはグラワリア王位を持つものが二人も集まっていることになる。事実、セイルヴァスの身柄を抑えるために国境近くのグラワリア諸侯がサティネスを包囲したが、例のリューンという男の率いる軍勢に追い払われたという話もあります」
だとすれば、わずか百人でおそらくは十倍近い敵兵に勝利した計算になる。もっとも、ネルトゥス自身は、この情報はあまり信じてはいなかった。
そもそもあちこちに潜りこませている間者たちの情報網は、いまではエルナス公派の者たちによってかなり混乱させられている。おそらく敵は、意図的に誤情報も流しているはずだ。
実のところ、ネスにレクセリアが現れたうんぬんという話も、わざとそちらに目をむけさせるエルナス公の謀略、という可能性も十分にありうるのである。
(まったく、なにを……そして、誰を信じていいのやら)
改めてネルトゥスは、室内を見渡した。
国王シュタルティスは、愛人であるセムロス伯の息女シャルマニアとなにやら囁き交わしている。
セムロス伯ディーリンはどこかうつろな顔で、地図を見おろしていた。
セヴァスティスは相変わらず赤鶏の肉を喰らいながら、唇と手を脂でべとべとに汚している。
他の諸侯もそれなりにいろいろとこれからのことを考えているのだろうが、彼らの顔色は読めない。
やはりまた、自分はつく側を間違えたのではないか、という苦い思いがこみ上げてくる。
かといって、セムロスでの大虐殺を行ったゼルファナスの側につく気には、さしものネルトゥスもなれなかった。ゼルファナスという若者は美しいし、国王にはどう見てもシュタルティスよりふさわしいように思える。
だが、同時にゼルファナスの危険さも、ネルトゥスは認識していた。
わざわざセムロスで五万人もの民を虐殺する男。
しかも自ら泣きながら虐殺を命じ、驚いたことに虐殺を行う兵すらもがある種の、「感動」を覚えながら民を殺したという。
そして恐ろしいことに、そうしたエルナス公を支持する者たちもまた、存在するのだ。
つまりは、エルナス公は本来、優しい人間なのだが、悪逆なセヴァスティスに対抗するだけの力と覚悟があることを示すためにセムロスの市民を殺し、王国をきっといまよりよくしてくれるだろうと信じるものがいるらしい。
特にまだ人生経験の浅い、理想を求める諸侯などはこぞってエルナス公派についた。
危険だ、とネルトゥスは思う。
エルナス公は、そうしたことも計算している。虐殺すらも、自分の政治的宣伝に利用してしまう人間というものに、正直にいえば、ネルトゥスは恐怖していた。
セヴァスティスは気にくわないが、万一、エルナス公がいまより巨大な権力を握れば、一体、アルヴェイアはどうなってしまうのか。
そのとき、突如、扉が開かれた。
「畏れながら申し上げます! ヴィンス侯爵夫人ウフヴォルティア夫人より、緊急の魔術伝令が届きました! エルナス公家の軍旗をたてた軍勢約一万五千が、ヴィンス侯爵領に侵入したとのことです!」
途端に、座がざわめいた。
セムロスからエルナス公の軍がまた進軍を始めたことはわかっていたが、その正確な位置はつかめていなかった。エルナス公は独自の間諜たちを使い、王家側の密偵からなる情報網を寸断していたからだ。
「なるほど……ついに、エルナス公も本気で動き出したと。今度はヴィンスを包囲するつもりか、それとも、一気に東にむかってメディルナスを急襲するのか……ますます、面白いことになってまいりましたぞ」
心底、愉しげにセヴァスティスが言った。
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