8 切られた鎖
「陛下。それはいくらなんでも……」
レクセリアが、哀れむような目でこちらを見た。
俺は哀れまれているのだと、ネスヴィールは理解した。
怒りがすっと消えていく。その替わりに胸の奥に広がっていくのは……ある種の、むなしさだった。
「私は……」
ネスヴィールは、しばしふさわしい言葉を探していた。
「私は……リューン殿。貴殿がうらやましい。貴殿は自由だ。それこそ嵐の雲のように自在に流れていくことが出来るだろう。だが、あいにくと、私にはいろいろなものが鎖となって、束縛するのだ。わかるか? 私は……ネス伯家に生まれた。双子の弟として。人には、定められた宿命が存在する。私は、貴殿には見えぬかもしれんがな……さまざまな鎖に縛られているのだ。兄との鎖。領民との鎖。騎士としての鎖。領主代理としての鎖……」
そのときだった。
リューンがいきなり立ち上がると、背に背負っていた大剣を引き抜いた。
「陛下!」
レクセリアが、かすれた声をあげた。
よく見れば、その刀身はところどころ、血に濡れていた。
考えてみれば、さきほどグラワリア兵を追い払ったときに、リューン本人が戦って何人もの兵士を斬っていたのだ。
銀色の大剣は不吉に血に濡れて、その恐ろしげな姿をさらしている。
自分は、なにかリューンという男を怒らせるような真似をしたのだろうか。
不思議と、兵たちを呼ぼうという気にはなれなかった。
たぶん、何人、兵を呼んでも、この男の前では野菜のように切り刻まれるだけだと本能的にわかっていたのだ。
腰に下げた長剣の柄に手をやることすらできなかった。
斬られる。
愚かな話だ。こんな男を武器を携行させたまま城内に引き入れてしまった。
そのまま、剣を持たせて人払いをするなど……いまさらながら、うかつなどという話ではない。
レクセリアがいることで、どこかで油断していたのかもしれない。だが、自分の身を守ることもできぬような男が、ネスの民を守ることなどできるはずもなかった。
馬鹿者にはふさわしい最後だ。
だが、このまま死ぬのなら……。
一度でいいから、「兄の影」ではなく、ただの一人の男として、生きてみたかった。
ネス副伯ではなく、領主代理でもなく、なんの鎖にも縛られずに……。
その瞬間、疾風のような斬撃がきた。
恐怖を覚える暇もなく、鉄塊のような大剣が振り回される。
ごうっという音が鼓膜を激しく震わせた。リューンは信じられないような速度で大剣を我が手のように操っていた。
刀身が頭上を、手の脇を、足下を通過した。
だが……大剣は、ネスヴィールの体をかすりもしなかった。
「はっ」
リューンが、大剣を背に戻すと、子供みたいな笑顔を見せた。
「なんだ。ネスヴィール……あんた、なかなか大した玉じゃねえか。普通、いまみたいにやられりゃあ、泣くか喚くか、小便を漏らすかする。でもあんたは、対して顔色もかえちゃいない」
そうだったのだろうか。
正確には、顔色を変える暇すらなかった、というべきかもしれない。
だが、いまのは一体、なんだったのだ。
「いままで……縛られて、面倒だったんだろう? だから、斬ってやったぜ、あんたの体を縛っていた、いろんなしがらみの鎖って奴を」
鎖。
気のせいか、体が軽くなった気がする。
その瞬間、リューンがいまなにをしたのか、ようやくネスヴィールは理解した。
この子供みたいな大男は、わざわざ大剣を振り回して、ある種の儀式のように、ネスヴィール自身の体、というよりは心を縛っていたさまざまな鎖を斬った、と言いたいのだろう。
軽い。体が軽い。まるで嘘のように体が、心が、自由になった気がする。
「はは……」
いつしか、低い笑い声が、唇から滑り出ていた。
「はははは……はははははははは」
そういえば、本心からこうして笑い声を出したのは、一体、何年ぶりだろう。
兄のネスファーといるときも、むろん、皮肉げな笑いを浮かべてはいた。だが、いま腹の底から噴き上がってくるような笑いは、そうしたものとはまるで違う。
自由。
「ははははははははははは……あははははははははははははははははははは」
きっと端から見れば、自分はホスにでも憑かれたように見えるだろう、とネスヴィールは思った。
兄。ネス副伯。領地。領民。貴族としての誇り。
そうした桎梏から解き放たれるのが、これほど快いとは考えたこともなかった。
一生、それは自分についてまわるものだとばかり思っていた。
「はははははははははははは」
いつしか、ネスヴィールは目から涙を流していた。
「これが……自由って奴だ」
リューンが言った。
「でも、自由っていうのは、あんたが考えいてる以上に怖いぞ。いままで鎖に縛られていたもので、同時にあんたは守られていたんだからな。それを斬ってしまえば……もう、守られない」
「なるほど」
ネスヴィールは言った。
「つまり貴殿は……このような心地でいつもいるのか」
「いや」
リューンはかぶりを振った。
「昔はそうだったんだがな。あんたとは逆に、どうにも俺はこれからどんどん、いろんな鎖で縛られていくみたいだ」
嵐の王。
仮にも王を名乗るのであれば、どれほどの重圧が肩にかかるか、ネスヴィールは領主としての立場を知っているだけに、ぞっとする。
「ならば……私も、その鎖の重さを少しは、肩代わりできるかもしれない」
その言葉はごく自然にネスヴィールの口から出てきた。
「リューン殿。ネス副伯として、出来うる限り、貴殿に協力しよう。ただし、それはネスの領民にとって利益になるのであれば、という話だ」
「話はまとまったみたいじゃねえか」
リューンは笑いながら言った。
「ところで、葡萄酒の一杯ももらえないか? 男同士、こういうときは酒を飲んでもっと互いのことをしるべきだと思うんだがね?」
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