9  老僧の言葉

 すでに日は暮れ、あたりには濃い闇が立ちこめている。

 今夜は空が曇っているのか、星々の姿も見えない。

 村の中央では、巨大なかがり火が焚かれている。そのすぐ近くには、古びた木造の建物があった。セルナーダの農村ではどこにでも見られる、大地母神アシャルティアをはじめとする「実りの神々」に捧げられた寺院である。

 リューン軍の一行は、みな村の中央の広場やその周囲に集まっていた。

 なにしろ全員が、森から抜けたばかりなのである。全員がひどく薄汚れ、負傷者も珍しくはない。

 彼らは久々に……多くの者にとっては以前、いつ食べたのか思い出せぬほどに……人間らしい食事を採っていた。

 固い、がりがりとして噛むたびに力のいる無発酵の黒パンに、大兎の腸詰め。さらには大兎の炙り肉といった「ごちそう」がリューン軍の者たちのために供されている。さらにいえば、なんと酒まであった。

 薄い、質の悪い自家製の葡萄酒や麦酒だったが、文句を言うものなどいようはずもない。品質としては限りなく最低に近い酒であっても、いまのリューン軍の者たちにとっては天上の美味にも思えた。


(それにしても……)


 レクセリアには、当然のことながら、そのなかでも最上の酒や料理が出されている。レクセリア本人が拒否しても、周囲のものがどうしもて、良い品を出すのである。


(こんなことをいえば罰があたるけど……よく、みんなこれほどひどいものを食べられるものですね……)


 実際、上等の酒や料理に慣れたレクセリアにとっては、正直、口にした瞬間、吐き出すのをこらえたほどひどいものばかりである。

 葡萄酒は酸っぱく、酢になりかけているようだったし、麦酒もまずい。黒パンに至ってはあまりにも固く、岩を口にしているかのようだった。

 戦場で粗食に慣れたとばかりレクセリアは思っていたが、実は彼女の知らないうちに、王族にふさわしい食事がひそかに整えられていたのである。

 むろん、アスヴィンの森のなかでは、そんな余裕もなかった。レクセリア自身、魔獣の肉にかぶりついたのだ。

 だが、それでも肉のなかでもっとも上等な部分がレクセリアに出されたし、さらにいえば魔獣の肉を喰らうということ自体が、一種の異常事態であり、レクセリアも味がどうこうなどと考えている暇はなかった。

 だが、いまこうしてアスヴィンの森を抜けて……ある意味、レクセリアは非日常の世界から、日常の世界へと戻りつつあるともいえる。

 だからこそ、ふだんから食べていたパンや腸詰めや葡萄酒といったものだからこそその劣悪さが際だつのである。

 とはいえ、レクセリアにも村人たちが、精一杯のもてなしをしてくれていることは、わかっている。


(これが……むしろ、あたり前なのだ)


 顔をしかめたくなるほどの酸っぱい葡萄酒でなんとか黒パンを胃に押し込みながら、レクセリアは思った。

 戦場に出ていわゆる「下々」の生活に慣れたつもりでいたが、それは大間違いだったと改めて、知らされたようなものである。


「それにしても……なんとも、ご立派な、いな、勇壮な兵士のみなさんだ! さすがは、ウォーザ神が使わされただけのことはありますな!」


 ウォーザの老僧ははしゃいだような声で叫んでいたが、その周囲の村人たちの顔には、不審と恐怖の色があった。

 みなしわ深く、日に焼けたせいか褐色の肌をしている。老人たちはひどく多くのシミを顔に浮かべていた。みな薄汚れ、衣服などもぼろぼろである。さらにいえば、手足が異常なほどに痩せこけた者が多く、子供たちはわずかに腹がふくらんでいた。

 知識としては、それが栄養が足りていない証拠であることはレクセリアも知っている。だが、腹が減っているはずなのに子供の腹がふくらんでいるのは、どこか皮肉な光景に思えた。

 彼らの目は……どこか、おびえた獣のようなものに思える。

 むろん、リューン軍のものたちの目も、凄まじいものだ。かつてのレクセリアであったならその目を見ただけで恐怖を覚えただろう。なにしろ、彼らはまさに修羅場をくぐり抜けてきたのだから、それも当然といえるのだが。

 だが、民の目は、また別の意味で、レクセリアの肌を粟立たさせた。

 少なくともリューン軍のものは、誰が味方で誰が敵か心得ているし、攻撃されれば自ら戦う。

 だが、民の目はそうした者ともまた違うのだ。

 どこかに、卑屈さと卑しさがある。

 もしいざとなれば、この者たちは平気でリューン軍を裏切る……それが、レクセリアの直感だった。そして、リューンはそんなことは当然のことだと思っているようだ。

 だから食料などにもさりげなく毒味を行っているようだし、泥酔した様子もない。いや、それをいえば一見、浮かれ騒いでいるリューン軍の兵士たちもみな、同じだ。

 彼らは陽気にはしゃいでいるふりをしながら、一瞬たりとも気をぬいていない。

 自然と、わかるのだろう。アスヴィンの森であまりにも多くの危地をくぐりぬけてきた者たちは、本能的にこの村の人々のことを警戒しているのである。


「で、じいさん」


 葡萄酒の革袋を煽るリューンにむかって、ウォーザの老僧は言った。


「私はウォースクドと申しますがお忘れでしょうか」


 リューンが面倒くさそうに言った。


「ああ、そうか、悪い悪い……で、ウォースクドさん。あんたが言うには神託にはウォーザ神が現れてアスヴィンの森から『嵐の王』がやってくる……そいつらがグラワリアからきた野盗どもを倒してくれる、そういう話だったな」


「ええ」


 老人の青い目がぎらぎらと、熱狂的に輝いていた。


「神は確かにそう仰せられました。現在、このネス伯爵領は……ひどいものです」


 ウォーザの老僧は、一瞬、天を仰いだ。


「すでに主立った働き手は、伯爵に兵士として徴用され、現在、国王派についているようです。むろん、我ら領民は国王陛下の、そして伯爵の領地にすまわせて頂いている身……それは当然の義務でありましょう。しかしながら……」


 ウォースクドの声が、わずかにひそめられた。


「もともとネスの地は、ケルクス河をはそんでグラワリアと対峙しております。しばしば河を渡って、グラワリアの野盗どもがこちらにまでやってくる。否、グラワリアどころかどこの国のものか生まれも定かではない傭兵どもが、好き放題に暴れ回る始末……」


 それを聞いて、リューン軍のなかには顔をしかめる者も少なくはなかった。実のところ、彼のうちかなりの数が、グラワリア人だったからである。

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