5  アスヴィン越え

 一体、どれだけの間、この森のなかにいたのだろうか。

 すでにリューンの頭のなかで、月日という概念はなくなりかけていた。

 耐えざる魔獣の襲撃を警戒し、応戦する。神経が休まるときなど、文字通り、まったくない。常に実戦のただ中にいるような、極限の緊張感のなかで綱渡りを続けているようなものだった。

 否、戦場で戦っているときのほうが遙かにある意味では楽だった。

 戦場では、リューンは忘我の境地となり、戦いに没頭できる。だが、アスヴィンの森のなかの逃避行は、いつ戦いが始まるかわからないだけに、さしもの剛胆なリューンの精神をもすり減らしていった。

 毎日、少しずつ自分の部下の数が減っていく。リューンを「王」と呼ぶ者たちが。

 精神を日々、ナイフでごっそりと削り取られていくような消耗の仕方だった。だが、リューンは耐えた。耐えるしかなかった。

 なぜなら、これは彼が始めたことなのだから。

 もう、逃げられない。「嵐の王」としてウォーザ神からも認められた以上、逃亡は許されない。きつくない、と言えば嘘になる。

 だが、一度決めたからには、もう迷いはなかった。

 何人もの仲間が死んでいった。なかにはホスに憑かれ……つまり発狂して笑いながら森の中に一人で駆けていくものもいた。今頃はアスヴィンの土となるか、魔獣の腹に収まっているだろうが。

 苛烈、などという生やさしい言葉では語り尽くせぬ苦難の連続だった。

 飢えかつえ、魔獣の肉すら口にした。最近では魔獣の肉すらつき、飢えは当たり前のことになっていた。

 だが、まもなく、アスヴィンの森の果てに辿り着くという。

 昨夜は、人狼の民が容易していた肉を、みんなでたらふく食った。彼らは鹿などの草食獣の肉を、あらかじめ容易していたのだ。酒はなかったが、こんこんと溢れる泉のほとりで、清らかな水と肉をリューン軍はたらふく喰い、休んだ。

 百近い人狼の民は、もともとアスヴィンの西部に住んでいたという。いざとなれば彼らも戦力に加わると約束してくれたが、リューンは人狼の民はまだ仲間にくわえるには早い、と判断していた。

 やはりいまだに狼を嫌う者は多い。ましてや狼に変わる人間など、怪物扱いされている。人狼の民はうまく使えば貴重な戦力になるだろうが、いまはまだそのときではないのだ。


「リューン王……そろそろアスヴィンの終わりです」


 一行を先導していた人狼の民の男、レキルがそう言った。

 確かに、周囲の木々はまばらになりかけている。

 こころなしか、木のねじくれ方も、森の深部にくらべてさほどではないような気もした。あるいは、樹木を歪める邪悪な、魔術的な力もこのあたりでは弱いのかもしれない。

 そして、それは突然、やってきた。

 木々の間から、ふいに視界が開けていく。


「…………」


 リューンはなかば呆然と、森の外へと足を踏み出した。

 そこは、荒れた土地だった。岩がちであちこちに白い岩が露頭をさらしている。アゼミル草と呼ばれる辺境の荒れ地によく自生する草がまばらに生えていた。

 だが、もう、樹木はない。


「兄者」


 カグラーンが、震える声で言った。


「森……終わったぞ」


「ああ」


 リューンも、なかば呆然としながらつぶやいた。

 アスヴィンの暗い森の底で魔獣と戦いながらはいずり回っている間、それは幾度となく夢に見た光景だった。いつか、必ず森の端に辿り着く。それをリューンは信じていた。信じていなければ……たぶん、今頃、死んでいる。

 だが、人というのは奇妙なものだ。

 あれほどに切望していた光景をいざ現実に見てみると、あまり喜びのようなものが実感できないのだ。

 あるいはこれは、たちの悪い未知の魔獣が見せている夢や幻ではないのだろうか。


「これって……現実なのか?」


 思わず、リューンは言った。

 実感というものが、まるでないのだ。

 やはりこれは実は夢なのかも知れない。いまごろ自分は、ぼろぼろになった毛布にくるまって森の外の光景を夢のなかで見ている……。


「あひゃひゃひゃひゃひゃ」


 いきなり、長い槍を背に担いだ男が、哄笑を放った。

 やせぎすの男で、衣服などはぼろぼろになっている。もっともそれは、リューン軍みなが似たようなものなのだが。


「団長……じゃなくて、陛下! こりゃあ、どう見ても現実ってもんですぜ……ひゃははは」


 アシャスは、言葉を発するたびにいちいち笑うという癖がある。場合によってはそれず不快に感じられるときもあるが、いまのアシャスの笑いはむしろ、清々しい風が心のなかを吹き抜けていくような爽快感があった。


「そうか……これ、現実だよな……俺たちは、ついにやり遂げたんだ……」


 ふいに、発作的な笑いがこみ上げてきた。


「あは……ははは……はははははははは!」


 ようやく、リューンのなかにも実感として、ついにアスヴィンを抜けたのだという思いがやってきた。


「はははは……おい、俺たちすげえな! 誰も、こんなことやった奴はいないだろう! 俺たちはセルナーダ最大の魔境を……あの魔の森アスヴィンを踏破したんだぞ!」


「や、やったんだな」


 禿頭の頭の、以前に比べれば脂肪はへったがそれでも肥満しているクルールが、いつもの舌足らずな口調で言った。


「お、俺たちはアスヴィン……越えたんだ」


「ははっははははははははははは」


 その横から豪快な笑い声が聞こえてきた。髭面の巨漢、ガラスキスは実に愉しげな声をあげていた。


「やりましたね、陛下! こんな馬鹿なことやりとげた奴は、聞いたことがない! 俺たちくらいのもんですよ! 軍隊でアスヴィン突っ切ったなんて馬鹿どもは!」


「確かに」


 この状況でも、軍神キリコの僧侶イルディスの口調は堅苦しいものだった。


「私の知る限り、前例がありません。これもキリコ神のご加護のおかげかと」


 より正確にいえば、むしろ嵐の神ウォーザの加護というべきなのだろうが、むろん、誰もそんな細かいところ指摘したりはしない。

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