12  後悔

 常識的に考えれば、魔獣たちの餌になっているのだろう。

 だが、それでもネルトゥスはときおり夢想する。

 もし、この場にレクセリアさえいれば……エルナス公と、互角に戦えただろうに、と。

 一言で言えば、いまの王軍は、ばらばらである。

 全員を一つに束ねる者が、いないのだ。

 ナイアス攻城戦までは、まだよかった。セムロス伯ディーリンは軍事にはうとかったが、実務能力は高く、諸侯を見事にまとめ上げていた。少なくともディーリンの指示さえあれば、自らの役割に没頭していられたのである。

 ところが、あのセヴァスティス麾下の兵士たちによるむごらたしい虐殺の後、ディーリンは人替わりしたようになってしまった。

 以前のディーリンであれば、シュタルティスが乱心しかけたときは適当な言葉をかけ落ち着かせ、場をとりなしたものだが、いまはなにを考えているのか、ただうつろな笑みを浮かべたままだ。


(やはりなにか妙だ)


 と考えているのは、どうやらネルトゥスだけではないらしい。

 ときおり、たとえばネス伯ネスファーなども、疑いの眼差しらしいものをディーリンにむけている。

 魔術師の魔術には、対象の意識を乗っ取るものも存在するという。あるいは、ディーリンがそうした術の餌食になっているということは、考えられないだろうか。

 だが、もしそんなことがあれば、王家の魔術の裏方である王立魔術院の魔術師たちが黙ってはいないはずだ。

 だとすればこのディーリンの明らかにおかしな様子は、一体、なにを意味しているのか。


「とりあえず、当面の方策としては」


 ディーリンが、ようやく口を開いた。


「メディルナスを中心に、諸侯の兵を集めるよう、各地の領主に働きかけましょう。領主同士の小競り合いをしても、詮無きこと。一つ所に大兵力を集め……一気に、反逆者どもの軍勢をたたきつぶすのです」


 そんなことは、言われなくても誰だってわかっている。


「しかし、セムロス伯閣下」


 思わず、ネルトゥスは口を開いた。


「問題は諸侯が果たして、おとなしくメディルナスに兵を送るか、ということなのです」


「これは異なことを」


 ディーリンが、不快げに眉をひそめた。


「まさかハルメス伯は、王軍にまで……そのような不埒なものがいると申されますか? つまり、陛下の命に従わぬ者が……」


「そういうわけでは」


 ネルトゥスはさらに不審の念を覚えた。

 あのセムロス伯ディーリンに、こんな簡単なことが「わからないはずがない」のである。


「むろん王命とあれば、臣たる者、みな従うものです。しかしながら、世の中には出来ることと、出来ぬことがある。たとえばメディルナスに兵を送れ、参集せよと命じても……諸侯のなかには、自領が気になる者も少なくないはず。自らの領地を空にすれば、その間に賊軍の敵に領地を乗っ取られるやもしれませぬ。さらに申せば、たとえメディルナスに上りたくとも、途中、賊軍の支配する地域を通らねばならぬ者も少なからずいるかと。どれほど忠義に篤い臣とはいえ不可能なことは、不可能なのです」


「なるほど」


 一瞬、ちらりとこちらにネス伯ネスファーが目をむけた。なにか、あとで言いたいことがある、といったような目だ。

 やはり、さすがに今のディーリンの言葉に、ネスファーもなにか異常を感じとったのだろう。

 あるいはこれが「老い」というものなのだろうか。ふと、ネルトゥスはそんなことを思った。

 どれだけ若き日に力を振るった者であれ、老齢にだけは勝てないものだ。

 死を迎えるまで、人はみな、老いていく。そして老いは若さと活力、そして胆力や明敏な知性といったものすら、人から無惨に奪い取っていくものだ。

 つまり、セムロス伯ディーリンは老いた、ということなのかもしれない。

 そういえば、ネルトゥスの父、先代伯爵もこうだった。

 死ぬ前の半年に急激に、知性を衰えさせていったのだ。

 父も武人ではあったが、若いうちに肉体を酷使したせいか、老け込むのもはやかった。死の直前などは、あるいはネルトゥスが自分の息子であることすら、よくわかっていなかったかもしれない。

 さらにディーリンは、息子を三人、「涙の虐殺」でエルナス公に殺されている。いくら馬鹿息子ぞろいとはいえ、実の子なのだ。それが精神的な衝撃でないわけがない。

 だとすればこのディーリンの、ある意味では知性の衰えぶりも、納得がいかぬというわけではない。

 だが、それでもなにか微妙に違和感を感じる。

 いずれにせよ、もはやセムロス伯は、かつての精力的で巨大な政治力を持つ男ではない、と見なすべきだろう。

 とはいえ、あとはこのなかで信頼できるものなど……どれだけいるのだ?

 そう考え、改めてネルトゥスは慄然とした。

 セヴァスティスは、確かに軍事にかけては才がある。あのナイアス候に対してなにか心理戦のようなものをしかけ、ついに相手を乱心させたのだ。戦いというより一方的な、思い出すのも忌まわしい虐殺になってしまったが、こちらにほとんど被害が出ていないのもまた、事実なのである。

 だが、セヴァスティスは諸刃の剣だ。

 かつてはディーリンがかろうじて手綱をとっていたが、この調子では、もはや彼は信用できない。

 つまり、王軍という名こそ持っているが……実質的に、この軍勢はネヴィオン人の、セヴァスティスによって牛耳られているのである。

 いまはまだいい。おそらく地方にいる領主たちも、セムロス伯がいるから、とディーリンをあてにして王軍につくと表明しているのだろう。

 だがそのディーリンがこの有様では、セヴァスティスが暴走したとき、誰が抑えればいいのだ?

 あるいは、とネルトゥスは思った。

 自分はまた、戦でつく側を間違えたのかもしれない……。

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