11 不在の王妹
「これは……どうにも、まずいですな」
卓上の地図を見つめていた一人の若者が、低い声でつぶやいた。
栗色の髪に青い瞳を持つ、なかなかの美青年である。普段は飄々とした態度で知られているのだが、さすがに今日ばかりはその顔に深刻な表情が浮かんでいた。
王国有数の貴族の一人、ネス伯ネスファーである。
ネスは古代からの魔術が働いている地とも言われ、双子がよく産まれることで知られている。当代伯爵もその例に漏れず、双子のネスヴィールという弟がいた。ただ、弟のほうは今回は、自領に詰めて守りに当たっている。
「セヴァスティス将軍の仰せられるように、完全に、王国はまっぷたつ……それだけならばいいのですが、これだけ細かい領地ごとに分かれてしまうと……」
「兵を集めるだけでも一苦労だし、そもそも王軍支持の領主との連絡も面倒になりますなあ」
セヴァスティスはあいかわらず赤鶏の太股に齧り付いていた。
「このままいけば、領地ごとに隣接する領主ごとが争いを繰り返す……つまりは、収拾がつかなくなる。いまのグラワリアのようになりかねない」
グラワリアは先王ガイナスの突然の死により、大混乱に見舞われている。せめてもの救いは、グラワリアが幾つもの派閥に分かれて争いを続けているのに対し、アルヴェイアは国王派対エルナス公派……この場では王軍と賊軍と呼ばれているが……の二大勢力にはっきりと分かれている、という点くらいのものだろう。
とはいえ、まだすべての領主が旗幟を鮮明にしたというわけでもない。また、たとえば一つの貴族の家でも、家内で二派に割れている、というところも少なからずあるようだ。
「グラワリアとはましとはいえ……誰がいつ、敵方に寝返るかも判然としないという意味では、アルヴェイアも面倒ですな」
なにを思ってか、セヴァスティスがにやりと笑みを浮かべていた。
ネルトゥスからすれば、セヴァスティスは所詮はネヴィオン、つまりは異国からの客将である。セムロス伯ディーリンにとっては妻の弟、つまり義理の弟にあたるわけだが、正直に言って、セヴァスティスはアルヴェイア人の間でのうけはよくなかった。
人気は最悪といっていい。
今回、エルナス公側についた諸侯たちも、あるいは王家に愛想をつかしたというよりも、セヴァスティスを嫌って、という者が少なからずいるかもしれない。
最悪の場合、セヴァスティスはアルヴェイアの混乱を引き起こすために、ネヴィオンが送り込んできたのではないか……とすら、もともとが武人で、謀略の才にあまり恵まれているとはいえぬネルトゥスでさえ考えてしまうほどなのだ。
とはいえ、ネヴィオンもネヴィオンで、いまは四大公家同士の争いが水面下で激化しているらしい。現在のネヴィオンは、セヴァスティスの父であるリュナクルス公家が実権を握っているが、それに対抗して残り三公家が手を組んだ、という話もある。
つまり、下手をすると三王国のなかで比較的、秩序を保っていたネヴィオン王国もまた、内乱が起きるかも知れないのである。
アルヴェイア。グラワリア。ネヴィオン。
古代セルナディス帝国の皇帝の血を受け継いだ三つの王国がいま、それぞれ内戦に突入しようとしている。
すでにグラワリアでは地方領主たちが際限のない戦いに突入している。アルヴェイアでも、国王派とエルナス公派で、遠からず新たな戦となるだろう。すでにナイアスの攻防戦、そしてセムロスでの「涙の虐殺」と、すでに内戦は始まっている、といってもいい。
それにくわえてネヴィオンまでもが内側で諍いを始めたら……。
(三王国は、一体どうなってしまうというのだ)
ネルトゥスは、暗澹たる気分に駆られていた。
やはり、すでに三王国の命運は尽きているのかも知れない、と思うときもある。
(あるいは、このまま行き着くところまで行ってしまったほうがいいのか)
そんなことを、思わぬでもない。
国王の権威はもとより低下していたが、エルナス公がここまで露骨に反旗を翻し、それに王国の貴族の半分が賛同しているのである。むろん、アルヴェイアでもかつては幾度も内乱はあったが、ここまで見事な……というのもいささかおかしな表現だが……混乱状態は、少なくともネルトゥスが生まれてからこの方、記憶にない。
「とにもかくにも……国中がいまはばらばらになっちまっている。これじゃあ、まずい」
セヴァスティスが、乱暴な言葉遣いで卓を激しく叩いた。
「しかも諸卿との連絡も取りづらいときている。このままじゃあ、あちこちの諸侯がそれぞれ下らないことで隣の諸侯ともめて、なにがなんだかわからないうちに王国中で火の手があがる、なんてことにもなりかねない」
それは確かにセヴァスティスの言うとおりだ。
「なにか」
若き国王が、震える手で酒杯をあおった。国王の酒量は以前にも増して増えている。原因は、言うまでもないだろう。
「なにか策はないのか。よい策は……」
国王は、必死の形相で、居並ぶ貴族たちの顔をうかがうようにした。
駄目だ、とネルトゥスは思う。
こうしたときに国王シュタルティスが堂々としていれば、それだけで少しは貴族たちも落ち着くのである。だが、まだ若く経験が浅いのを割り引いてもやはり、シュタルティスは臆病すぎる。
とうてい、国王の器ではない。
それは実のところ、この場にいる者たちは……おそらく寵姫シャルマニアや、それこそ酒杯の支度をする侍女たちまでみなわかっていることなのだ。だが、だからといって、国王の首をすげ替えるというわけにもいかない。
困惑する貴族たちの顔を見ながら、ネルトゥスは思った。
(あるいはみな、同じ事を考えているのかもしれぬな……こんなときに、レクセリア殿下がおられれば、と)
実際、女だてら、などいう言葉が馬鹿馬鹿しく思えるほどに、こうしたときにレクセリアは果断な判断力を示したものだ。もし彼女がここにいれば、セヴァスティスなどにも怯えたりすることなく、冷静に貴族たちをまとめ上げて自ら兵を率い、エルナス公と戦っただろう。
だが、レクセリアは現在、行方不明である。
グラワリア王ガイナスは、なにを血迷ったか死の直前に、リューンヴァイスとかいう流れ者の傭兵に王位を譲ったのだった。その、「新グラワリア王」の「王妃」となったレクセリアの行方は、グラワリア諸侯に追われ魔境アスヴィンの森に入るところまでは掴んでいるが、その先は情報がない。
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