9  王軍諸将

 ハルメス伯ネルトゥスは、かつてはアルヴェイアでも有数の武将として知られていた。

 否、今でも彼が歴戦の勇士であることは、王国の誰もが認めている。

 とはいえ、南部諸侯が王家に対して反旗を翻し、当時の王女レクセリアの率いる王軍とと戦った「フィーオン野の戦い」以来、彼の武名にも傷が付き始めていた。

 敗北伯。

 そんな不名誉な名が、いつしかネルトゥスに対し囁かれ始めていたのである。

 かつては「ハルメスの鮫」と恐れられたネルトゥスも、フィーオン野の戦い、続いてグラワリア王ガイナスとの「ヴォルテミス渓谷の戦い」で、連敗を繰り返していた。以来、いままで地道な勝利を繰り返していた反動か、「ハルメス伯がついた側の軍勢は負けるらしい」という、無責任な噂が飛び交ったのである。

 だが、先日の「ナイアス攻城戦」で、ネルトゥスの属する王軍は、勝利した。

 ナイアスの城市は陥落したのである。

 とはいえ、ネルトゥスからすれば……あれは、戦でもなんでもない。

 セムロス伯ディーリンが率いた客将セヴァスティスは、なにかの策を使ってナイアス候ラファルの正気を奪った。その結果、ラファルは城壁のなかの自らの民を殺そうとしたのだ。

 必死になって逃げまどうナイアスの民は、城門を内側から開き、外に逃れようとした。

 そこに待ち受けていた王軍が、ナイアスの民を殺したのだ。

 あの悪夢のような一日を思い出すだけで、ネルトゥスはいまだに目の前が真っ暗になるような気分になる。

 あれは断じて、戦などと呼べる代物ではなかった。

 どう考えても、ただの一方的な、無慈悲な虐殺である。

 成人男子は当然のこと、女子供にも容赦はなかった。特にセヴァスティス率いる二千のネヴィオンたちの悪行は、酸鼻を極めた。

 彼らは女たちを犯し、解体し、調理し、そして喰らった。

 悪夢のようだが、現実の話である。

 セムロス伯ディーリンは、アルヴェイア国内に恐ろしい怪物を引き入れた。否、あれは怪物などという生やさしい代物ではない。


「ネルトゥス卿、いかがなされた?」


 その怪物が、卓の向こうから声をかけてきた。

 緑の目で見つめられた途端、ネルトゥスの全身に嫌悪感と……言いがたい恐怖による鳥肌が浮かび上がっていく。

 ネルトゥスも、いささか臆病なところはあるが、「ハルメスの鮫」と恐れられた武人である。いざとなれば、戦場では勇猛果敢な働きを見せて敵を打ちのめす。

 そのネルトゥスさえもが、眼前のセヴァスティスの姿に戦慄しているのだ。

 一見すると、鮮やかな緑を主体にした軍装を身にまとったセヴァスティスは、なかなかの武人らしく見える。

 長身で、全身を筋肉によろわれている。顔立ちも端正で、基本的には高貴とすらいてよいような顔立ちをしている。金色の髪に、なんといっても特徴的な、鮮烈な緑の瞳。

 だが……それでもなにか、セヴァスティスの白い肌の下から、黒い粘液のようなものがしみ出ていくような、言いようのない不快さを感じるのもまだ事実だった。

 一言でいえばネルトゥスは、上品に人の姿を装った、下卑た野獣のように見えるのである。

 高貴さの下に、確かに抑えきれぬ生来の品性の下劣さのようなものがしみ出してくるかのようだ。

 いまも好物らしい赤鶏の股肉に、くちゃくちゃと音をたててかぶりついている。その犬歯は、知性を持つ肉食猿であるアルグと呼ばれる怪物の牙を思わせる。

 事実、セヴァスティスにはどこかでアルグの血が混じっている、という噂がまことしやかに語られている。それは、このセルナーダの地にあっては最大級の侮蔑の言葉なのだが、ことセヴァスティスに関する限り、それは事実ではないか、とさえ思える。

 ネルトゥス自身、犬歯がちょっと異様なほどに発達している。これはハルメス伯家に代々、伝わる特徴でもあるのだが、そのためにひそかにアルグとの関係を囁かれることも珍しくはなかった。それだけに、「アルグ混じり」となどという侮蔑の言葉は使いたくはないのだが、このセヴァスティスに限っては、そうした言葉が一番、ぴったりくるように思える。

 アルグ猿は、人間の女を犯し、ばらばらに解体し、その肉を喰らうことでもまた有名なのである。人間より遙かに残虐な種族として、セルナーダ全土で嫌忌され、同時に恐れられてきた。


「さて、そろそろ……アルヴェイアの諸侯たちも、王軍につくか、あるいは賊軍につくか、態度を決め始めたようですな」


 そう言って、セヴァスティスは卓の上に広げられた巨大なアルヴェイア王国の地図に目を落とした。

 王国全土が、一枚の地図に描かれている。

 地図の描かれている紙は、一般的に用いられる獣皮紙の類ではない。

 南方のフェルスアミアンの森に住む謎めいた非人類種族、いわゆる「森の民」がつくった「草紙」と呼ばれるものだ。

 草紙は、獣の皮を処理してつくるものとは違い、植物の繊維からつくると言われている紙である。森の民は、その製法を秘密にして、セルナーダの人々にわずかな量の草紙を交易用の品として取引していた。

 草紙は獣皮紙よりもはるかに書きやすく、また薄いわりには強靱である。さらには保存性もきわめて高く、魔術師や賢者、書記といった人々の間では珍重されていた。

 逆に言えば、草紙に描かれている情報には、それだけ重要なものが多いともいえる。

 事実、いま卓上にある地図は、そもそも異国人であるセヴァスティスに、本来であれば見せることすらはばかられるような代物なのだ。

 アルヴェイア全土の細かい地勢はむろんのこと、主要都市や街道、さらには行政区分などまでが詳細に描き込まれている。この時代、戦略的な情報の詰まった異国の地図は、恐るべき貴重品でもあるのだ。ある意味では、アルヴェイアという国の秘密のかなりのものがこの地図には描かれているのだから。

 だが、上座に座った国王シュタルティス二世にとっては、そんなことはもう、どうでもいいのだろう。

 栗色の髪に青い瞳の、見るからに繊弱そうな若者である。決して頭が悪いわけではないし、たとえばネルサティア幾何学などについてはユリディン寺院の賢者でさえ舌を巻くほどの犀利な頭脳の持ち主なのだが……一国の国王としては、残念ながら暗愚の一語につきる。


「賊軍めが……畏れを知らぬ者どもめが……余の命を狙っているのか」


 そう言って、落ち着かなげに舌打ちし、ときおり金杯に注がれた葡萄酒をあおるさまは、どう見ても国王にふさわしいとは思えない。

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