5  さながら神の如く

 狂気は感染する。

 否、すでにエルナス公の率いる軍勢の兵士は、みなどこかで彼の強い精神的影響力のもとにある。

 昔からの古参の家臣は当然のこと、徴用された農民出身の兵卒までもが、いつしかゼルファナスに対し、畏怖と強い忠誠の念を抱いている。

 もともとエルナス公は、きわめて規律などに厳しいことで知られていた。

 たえとば新たにエルナス公位を継いだ際、まずゼルファナスが行ったのは徹底的な領内の治安回復だった。

 先代は統治に対して甘い考えをもち、領内では大量の盗賊たちが跋扈していた。だが、エルナス公が公位についてよりこのかた「エルナス公領には盗賊は一人もいない」と呼ばれるような、苛烈な処罰が犯罪者に下された。

 徹底的な捕縛と、処刑が行われたのだ。

 そのあまりにも厳しい裁きのため、エルナス公は実はただ人を殺したいという、恐るべき死の女神ゼムナリアの信徒なのではないか……そんな「噂」すら流れたほどだ。

 だが、結果的にはこの策は功を奏し、領内の治安は劇的に回復された。

 とはいえ、エルナス公領ではこのときの記憶が残っており、いまだに臣民はゼルファナスをどこかで恐れている。

 さらにゼルファナスがセムロス伯ディーリンにより、「ゼムナリア信者として告訴された」ことも、エルナス公領の人々は知っている。

 多くの者は「言いがかりだ」とディーリンに対して激しい怒りを抱いた。だが、決して少なからぬ数の者たちが「あるいはそうしたこともありうるのではないか」と考えたこともまた、事実なのだ。

 だが、そうした恐れを抱いていた農民兵たちも、エルナス公の軍旗のもと、兵士として軍勢に参加するうちに……しだいにゼルファナスに心服するようになっていた。

 エルナス公の軍律は、やはり厳しい。たとえばもし略奪などしようものなら、確実に死に処される。

 ゼルファナスの下す処罰とは、すなわちほとんどが「死罪」なのである。

 厳しすぎる罰は、人々の当然の反感を呼ぶ。だが、ゼルファナスは死罪に処する前、徹底的な吟味を行う。

 初めのうちこそ、いつ死罪に処されるかと恐れていた農民兵たちも、やがて無法なことをしなければ決してむやみに死罪を下されることはないと知り、安堵した。

 そしていま彼らはあの誇り高いエルナス公が……太陽神その人の血をひき、セルナーダでもっとも尊貴な血をひく者が、たかだかセムロスの平民風情にむかって謝罪し頭を下げるという、この時代の常識からすれば、それこそ「太陽が西からのぼるような」異様な光景を目撃している。

 そして、その「誠意」に応えるかのように、幾人ものセムロスの都の老人たちが、城の前の広場に……「自ら殺されるために」やってきたのだった。

 冷静にみれば、それはあまりにも異常で、ほとんど狂気じみた光景である。にも関拘わらず、兵士たちは口には出さずとも……改めて、エルナス公の「力」に感服していた。


(やはりゼルファナス卿のお心は、セムロスの民にさえ伝わるのだ)


(これこそが、真の王たるにふさわしい徳望というものではないか)


 すでに彼らも、この尋常ならざる状況そのものに、息を呑まれてしまっている。

 当然の事ながら、それにはゼルファナスの、あの男とも思えぬような、あるいはこの世ならざるような美貌も関係している。

 あまりにも美しい男というものはそれだけで、言うなれば「異形」である。

 だが、異形とはまた、神々や超自然の力に連なる力であることを、神々の法力や魔術的事象が現実に機能するこの地の住人たちは知っている。彼らにとり、ゼルファナスの力は、ほとんど魔術的にすら感じていた。

 すでにゼルファナスは、幾人もの警護の兵に守られ、城の露台から、前の広場に移動している。

 そこには十数人の、セムロスの老人たちがいた。

 みな緊張した様子で、ゼルファナスを見つめている。彼らの顔には、一様に驚愕の色があった。

 松明の光をうけて、闇の中にエルナス公の、神そのものといっても信じてしまいそうなあまりにも美しい面が浮かび上がっている。セムロスの者にしてみれば、「我らの殿様」であるディーリンが気さくな人物であったので、貴人の顔は見慣れているはずだった。

 ディーリンも顔全体のつくりが大きい、ある種の異相の持ち主である。温顔伯と呼ばれながらも、激怒したときのディーリンの恐ろしさもまた、セムロスの領民であれば誰もが知っている。

 しかし、ゼルファナスの美しさは、巨大な人間的魅力にあふれたディーリンともまた、異質なものだった。

 ディーリンは「あまりにも巨大な人物」という印象を、見る者に与える。これは身体的特徴というよりも、むしろ人格的、人間的な規模のようなものだ。ディーリンはいわゆる「大人物」や「大物」といった言葉で表現されるにふさわしい人格的巨大さを持っていた。少なくとも、傍目からはそのように見えた。

 だが、ゼルファナスの持つ力はまた違う。


(このかたは真にこの世のものなのか)


 それが、生まれて初めて、ゼルファナスの顔を間近で見たものに共通する感想ではあったとはいえ、セムロスの老人たちもすっかり魅惑してしまったのだ。

 男色趣味がどうこうというものではない。ただ、美しいものは美しいのだと誰もが知らされることになった。神々しささえ感じられるその美貌を、さらに輝かせているものがある。

 頬から流れた、涙である。

 月影を、そして松明の光をうけて、ゼルファナスの流す涙はきらきらと輝いて見える。もはやセムロスの老人たちにとっては、「敵対する軍勢の首領」というよりも、「地上に顕現した神その人」と対面するような心地になっている。


「御身は」


 一人の老人が、震える声で言った。


「真に……真に人なのか。あまりにも、おお、あまりにも……」


 誰一人、公爵にいきなり話しかけるという老人の非礼を咎めるものはいなかった。実際、ゼルファナスを一目みれば、誰であれそのような、恐るべき感慨にとらわれずにはいられないことを、普段、エルナス公の傍らにいる者たちは知悉していたのだ。

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