3 五万人
それは、まさに正気とは思えぬような申し出である。
確かに、セムロス伯ディーリンは、ナイアスでの五万人虐殺に荷担している、と言われても仕方がないかもしれない。
だが、だからといってセムロス伯の領民がその代価のように五万人、死ななければならないという理屈はない。
「ふざけるなっ」
領民の一人が、鎧戸の奥で罵声をあげた。
「なんで……俺たちが死ななきゃいけない! そんな馬鹿な理屈は……」
だが、城の露台のそばにいた彼は、鎧戸の隙間から、ゼルファナスの信じられないような行為を目にしていた。
露台の四隅には、夜でも姿が見えるように、赤々と松明が燃えている。その火明かりをうけ……ゼルファナスは、まるで謝罪をするかのように深く、頭を垂れていた。
その姿は、露台近くにいたものは誰からでも見えた。
こんなことは……ありえない。
あるはずがない。
貴族と平民では、命の価値そのものがまるで違う。悪辣な貴族のなかには、平民の命など牛馬以下、と考える者すら珍しくはないのだ。
ましてや、相手はエルナス公ゼルファナスである。
彼は正統な王位継承権者であり……エルナス公爵領の主なのだ。国王に次ぐ、否、あるいは国王よりも実力のある大貴族なのである。
そのゼルファナスが、まるで謝罪するかのように、ただの民にむかって、頭を下げている。
さらにはその目からは、滂沱と涙が溢れていた。
「むろんのこと……私も、このようなむごい真似はしたくない」
ゼルファナスは涙を流し、その美しい声を震わせながらも言った。
「しかしながら……ナイアスで、五万の民が殺されたのだ。ディーリンは、無辜の民の命を奪った。その償いは、受けてもらわねばならぬ。むろん、これは戦だからそうした無法は当然だ、という者もあろう。だが、それでは駄目なのだ……」
誰もがいまや、セムロス市内にいる者は、それこそ魔物にでも魅入られたかのように、ゼルファナスの言葉に聞き入っていた。
「ディーリンはあろうことかネヴィオン兵まで引き入れ、ナイアスの民を惨たらしく殺した……その代価は高くつくことを、ディーリンに知らしめねばならぬ。そして、アルヴェイア全土の者に知らしめねばならぬ。この私、エルナス公ゼルファナスはそのような者であると。相手の非を糺し、アルヴェイアをかつてのような王道楽土に戻すためには、幾人でも犠牲にするだけの覚悟はあると。言うなれば……今宵、殺される諸君ら五万の命は、これから来るべき時代への尊い礎……決して、諸君らの命は無駄にせぬ!」
ある意味では、異常で、むちゃくちゃな理屈である。
だが、さらに深くゼルファナスは、謝罪するかのように深く深く、セムロスの民にむかって頭を下げた。
ありえないことが、いま、起きている。
相手は、王位継承権者なのだ。
本来であれば、民草の命よりも遙かに高い価値を持つ人物なのだ。
否、実のところ、もしセムロスの民五万の命とエルナス公ゼルファナス一人の命を比べれば、誰もがエルナス公のほうに遙かに高い値段をつけるだろう。特に国王軍からしてみれば、エルナス公は反逆者であり、どれだけ金貨を積んでも構わない、と考えるはずだ。
「こんな……こんな、馬鹿な話があるか!」
鎧戸の隙間からエルナス公が謝罪する場面を見ていた男は、我知らずそう吐き捨てていた。
だが、彼の心のなかでは、奇妙な感情が渦巻いていた。
(エルナス公は……これほどの人物だったのか)
そうした、やはり異常としか言いようのない心理である。
王位継承権者が、民に頭を下げる。
それは、これから殺されると宣言される者の心さえ打つような、まさに、絶対に時代常識からして考えられないような行動だったのである。
たとえば、セムロスではディーリンは「うちの殿様」としてひどく人望が篤い。とはいえ、それはいかに民が親しげに呼ぼうと……やはり相手は「殿様」であり、ある意味では神を尊崇するのに似ている。
だから、彼らは知っている。ディーリンは、絶対に領民に頭など下げない。神々が人に謝罪をこうことがありえないのと、同じように。
だが、だとしたらこのゼルファナスの行動はなんなのだ。
理解ができない。それなのに、さきほどから鳥肌が立ち、体の震えが止まらない。
ある意味で、セムロスの民は、ゼルファナスという若者に完全に気を呑まれてしまっていた。
彼は一万をゆうに越える、完全武装した兵士たちを引き連れているのだ。当然のことながら、その気になればなにもセムロスの民に謝罪などせずとも、命令一つで略奪を行わせ、むごたらしくセムロスの民を殺すことなど、実に簡単なことなのである。
にもかかわらず、エルナス公は自らの恥辱を代価に、このような道を選んだ。
人々の体は震え、ありえない現実に完全に判断力を失っていた。
なかには、泣き出すものさえいた。
いま、セムロス市民はそれこそ、魔法でもかけられたかのような、異様な心理状態にあった。
「伝え聞くところによると……ナイアスの民を、ネヴィオンの兵士たちは、それはむごたらしく殺したという」
ゼルファナスの声は続いた。
「男たちは生きながら、ばらばらにされ、なかには喰われた者も少なくないという。さらに女は辱められ、やはりむさぼり喰われた。ナイアスの都は血の色で塗られ、あちこちで鍋のなかに肉が投げ込まれた。そのなかでは赤子たちが茹でられ、怪物じみたネヴィオン兵に賞味されたという……すべては、セムロス伯ディーリンが率いられた、ネヴィオン兵の仕業だ」
もし、ここでディーリンの非をさらに咎め立てれば、あるいはセムロスの人々の反感を買ったかも知れない。だが、エルナス公はそうした人間心理のにもまた通暁していた。
「むろん、セムロス伯はこの行為をやめさせようとしただろう。しかしながら……時はすでに遅かった。セムロス伯はアルヴェイア国内にネヴィオン兵を引き入れる前に……気づくべきだったのだ。彼らの正体を。そして、戦に勝った時点で、虐殺をやめさせるのもまた、セムロス伯の責任であったはず。だが……事件はすでにおきたことだ。このような無法、狼藉は……仮にもアルヴェイア王家の血をひくものとして、許してはおけぬ」
人々はもはや言葉を失い、ゼルファナスの言葉に聞き入っていた。
「ゆえに……私もまた、ナイアスと同じだけの、五万の民を殺すことによって、セムロス伯の非を糺さねばならぬ」
さすがに人々がうめいた。
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