第六部  流血の大地

第一章  街々の殺戮

1  無血開城

 セムロスの都は、古来よりその南にそびえる大樹で知られている。

 実に樹高一千エフテ(約三百メートル)を越えるとてつもない巨樹は、セムロスの象徴のようなものでもあった。神話的な宇宙樹にも比されるその偉容は、夜空にも黒い影となって堂々たる姿を投げかけている。

 セムロスの大樹は、この地の豊饒さを表すものでもある。伝説、神話の時代よりセムロスでは作物が信じられないほどによく育つことで知られていた。麦は重く実を実らせて頭を垂れ、食用の大兎は肥え太り、雌牛は迸るように乳を放つ。

 こうした豊かな農産物に恵まれ、セムロスの都もまた活気に満ちていた。この戦乱の時代にあっても、市場に行けば新鮮な食料がずらりと並んでいる。「セムロスにいけば飢える者はいない」とは、古くからの諺である。

 だがそのセムロスの都は、いま、一種の緊張状態にあった。

 夜間だから静かなのは当たり前、という見方も出来るが、セムロスの都は現在、軍事的緊張下にあるのだ。

 もとはといえばセムロスの領主、温顔伯とも呼ばれる伯爵ディーリンの行動が、その原因である。

 セムロス伯ディーリンは、もともとはセムロスをよく統治する名君だった。

 だが、アルヴェイア中央の混乱に乗じ、彼は王都メディルナスでさまざまな政治工作を行った。

 その結果、ディーリンは現アルヴェイア国王シュタルティスの後ろ盾となり、王国一の実力者へと上りつめたのである。

 だが、これをよく思わない貴族たちも、また多い。

 なかでもディーリンと正面から対抗したのが、自身も王位継承権をもつエルナス公ゼルファナスだった。

 現在、セムロスの都はゼルファナス率いる軍勢により、四囲を完全に包囲されているのだ。

 ゼルファナスは、友軍であるナイアス候が守備を固めるナイアスの都には援軍を差し向けなかった。

 その替わりに、ディーリンのいわば本拠地であるこのセムロスにやってきたのである。

 とはいえ、セムロス側としても、これは決して寝耳に水といったわけではない。なにしろこのところ、アルヴェイア国内はいろいろと乱れている。先見の明のある者は、エルナス公が使わした兵士たちがセムロスにやってくる可能性はある程度、想定していた。

 とはいえ、まさかエルナス公本人が、しかも総勢一万を超える本軍を引き連れてセムロスに進撃してくるとは、誰も予想もしていなかったのだ。


「しかし、まさかエルナス公ご本人がやってくるなんてな……」


「ああ、ナイアスのほうじゃあ、王軍が勝ったらしいじゃないか。あれだって、エルナス公が援軍にいけば戦況はだいぶ変わっていたかも知れない……」


「しかしエルナス公は、おっかない御仁らしいぞ。なんでも領内の盗賊たちを捕まえて、みんな処刑したとか」


「馬鹿! そんなの領主として当たり前だろう!」


「でも、エルナス公は冷酷って噂、あるじゃねえか。ひょっとしたらゼムナリア信者じゃないかって……」


「馬鹿! 死の女神の名前なんて、呼ぶんじゃねえ! 神々はどこにでも耳があるっていうだろう!」


 超自然の存在が実在するこのセルナーダの地にあっては、神々さえも「きわめて現実的な脅威」なのだ。特に、人の死を好むゼムナリア女神などは、その名を口にのぼせるだけで死に一歩、近づくとさえ言われている。


「でもセムロスは城壁もしっかりしている。いくらエルナス公が軍勢を引き連れてきたって……」


「おいおい、確かに城壁はしっかりしてる。でも、守備隊なんて五百もいないだろう? それに、城門を内側から開けられたら……」


「馬鹿なこと言うな! お前はセムロス市民に内通者がいるとでもいうつもりか!」


「市民じゃねえよ! わかっちゃねえな! ディーリンの殿様は俺たちには出来すぎた殿様だが、問題の若様たちが……」


「ああ、『馬鹿様』たちな」


 ディーリンには三人の息子がいるが、いずれもその暗愚ぶりはセムロス領民たちの間でさえ物笑いの種になるほどだった。


「ひょっとしたら……馬鹿様たちが、エルナス公に内通しているかもしれない……そんな噂、聞いたことないか?」


「ああ……特に、タイクス様がな。なにしろ、兄のウルトゥス様が、一応は正統な跡継ぎってことになっている。そうなると、この豊かなセムロスはまるごとウルトゥス様のものになる。でも、タイクス様は……なにももたずに、下手をすりゃ裸でウルトゥス様に追い出されかねない」


 三兄弟は愚かな上、互いに非常に仲が悪い。これもまた、セムロスの領民の間では常識だった。


「そうすると……タイクス様が、あるいはエルナス公に寝返って……」


「まさか! いくらなんでもそれは……」


「いや、ありうるだろう。なんでも、噂じゃあナイアスの戦でディーリン様が捕まったって話もある……」


「…………」


「じゃあ、タイクス様が……って可能性は、結構、ありそうなんじゃ……」


 人々が家に籠もり、ひそやかに、不安な面持ちでそんなことを囁き逢っている間に、すでに異変が城門で起こりつつあった。

 城壁の各所にある城門は「内側」から、開かれていったのである。

 人々の恐れていた事態が、いま、現実のものになろうとしているのだった。

 城門の外から、規律正しい動きで兵士たちが静かに、まるでゆるやかな水のような動きで流れ込んでくる。

 たちまちのうちに兵士たちはセムロス市内の重要拠点を、占拠していった。

 ときおり小競り合いらしい乱戦が起きることもあったが、それでもあまりにも静かな占領である。だが、人々はさすがにこの異変には気づいていた。

 多くの市民が分厚く閉じられた鎧戸の隙間から、街路の上を闊歩する兵士たちを見おろしている。兵士の一人が掲げている黄金の剣の紋章の旗は、間違いなくエルナス公の軍旗に他ならなかった。

 あまりにもひそやかに、そして静かに、セムロスの都が制圧されていく。

 むろん、これが単にエルナス公の軍略による制圧でないことは明らかだった。誰かが、城内から手引きをしたおかげで、こうしてセムロスは無血開城をしたことになる。


「あれは……エルナス公の軍勢だな」


「間違いない。畜生……なんだか、やけにあっさりと占領されちまったじゃねえか」


 とはいうものの、人々の声にはどこかで安堵の響きがあった。

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