10  神殺し

 餌。

 恐怖に総毛立つとはこのことだろう。

 もしきさほどのリューンの隙を利用すれば、わざわざ背中をわしづかみにするなどということは必要なかったはずだ。そのまま頭を砕くなりなんなりして一撃でとどめをさせたはずなのである。

 なぜ、生きたままリューンの背中を捕まえて、こうして持ち上げているのか。


(こいつ……『生きたままの俺を喰うつもりなのか』!)


 背筋の重要な筋肉がアルグのかぎ爪によって宙につられていくうちに何本も断裂していくのがわかる。だが、そんなことを考えているひまもいまはない。

 地獄のように臭い猛烈な悪臭がガジャックの口から漂ってきた。

 さらには巨大な黄ばんだ牙や、弾力のある舌、そして熱く湿った吐息といったものが近づいてくる。

 喰われる。

 それは人間にとっての、もっとも基本的な、原初の恐怖の一つである。かつて人が獣から逃げ回っていた時代から伝えられた根源の恐怖なのだ。


(喰われる)


 それは究極の絶望だった。

 いつしかリューンは苦痛すら感じなくなっていた。恐怖や苦痛が限度を超えると、この危険な状態になることをリューンは経験で知っている。

 人間というのは不思議なもので、あまりに疲れすぎたときには最後に強烈な高揚感や安息感に襲われるのである。恐怖の裏側にある、恐怖を越えた極限の状況を指し示す言葉が、傭兵たちの間にはある。

 「ゼムナリアの鎌の刃を首筋に感じる」というのだ。

 いまこそまさに、死の時だった。

 死ぬ。絶対的に自分は死ぬ。逃げられない。もう回避できない。なにもできない。

 そうなったとき、人は絶望を超越し、ある種の法悦の虜となる。


(やっぱり神にはかなわない……か)


 なぜか笑い出したい気分だった。

 たとえアルグの信じるろくでもない相手とはいえ、そもそも神と戦うということ自体が馬鹿げていたのだ。

 こうしてアルグの神に生きたままむさぼり食われるというのも……あるいは、自分にふさわしい運命だったかもれしない。

 我ながら不思議と落ち着いた気分だった。なにもかもかどうでもよくなってきた。死ねば皆、終わりだ。死んだあとに自分がどこにいくのか……それはだれも……。


(待て)


 体の深部に、火がついた。

 それはリューンもいままで意識したことのないような精神の深み、遙かな深淵から灯された炎だった。


(こんなところで……)


 リューンの顔に、生気が戻った。その青い瞳が、野蛮で残忍な輝きを発した。


(こんなところで……「嵐の王」になるこの俺様が……死んでたまるかあ!)


 そしてリューンは、首をぐいとずらした。不自然な姿勢をとったせいで背筋に激痛が走ったが、そんなことはかまいはしない。

 そのまま、リューンは野生の獣のように歯列をむきだしにすると、アルグ神ガジャックの首筋を噛みちぎった。

 ぶつん、という筋や血管の切れる弾むような音が鳴った。


「キュウアアアアアアアアアアアアアッ」


 途端にリューンの口に塩辛いようなまずい味が流れ込んできた。そのままリューンは、いきなり大地に叩きつけられた。もし下が黒い柔らかい土でできていなければおそらく全身打撲で死んでいただろう。それくらいの猛烈な勢いで、まさに叩きつけられたのである。

 リューンの全身はすでに限界に達していた。

 負傷の度合いも、耐久力も、もう限界を超えている。

 だが、唯一、リューンのなかの燃え上がる怒りの炎が、あるいは嵐のときの激しい稲妻のようなものがいまだにリューンヴァイスというこの男を動かしていた。


「まずい!」


 そう叫んで、ガジャックの肉片と血液を吐き出す。

 おそらくセルナーダの歴史は長いとはいえ、「神に本当に噛みついた」のはリューンが初めてだろう。

 さすがのガジャックも、相手がただの人間ではないことに気づいたらしい。その顔には……当惑と、あるいは恐怖にも似た表情が浮かび始めている。


「俺の剣……返しやがれ!」


 リューンは全身を返り血と己の血で真っ赤にしながら、ガジャックの鎖骨のあたりにひっかかったままの大剣を柄を掴んで引き抜いた。


「ガジャ……ガアウ!」


 その瞬間、ガジャックが見せたわずかな動作をリューンは見逃さなかった。

 ガジャックは、なにかを恐れるかのように「頭を手でかばおうとした」のである。

 なるほど、心臓は駄目だったかもしれない。だが、たとえ相手が神だったとはいえ……まったく弱点がないとは思えない。


「なるほど……そこか!」


 リューンは、この世のものとも思えぬ悽愴な笑みを浮かべた。

 その青と銀色の瞳が鬼火のような不吉な炎を灯している。いまのリューンから噴き出される凄まじいまでの殺気は、とうてい人間やアルグごときでは耐えられぬ、そして神すらも怯えさせるほどのものだった。


「死にやがれ……このっ腐れ猿神!」


 リューンは絶叫すると、まさに神速を越えた神速としかいいようなのない速度で大剣で長大な弧を描いた。その先は、ガジャックの頭にむかっている。

 ガジャックが頭をかばおうとした瞬間には、もう刀身の先端が正確にアルグ神の頭に達していた。

 一瞬にして頭蓋骨が爆砕され、内側から桃色と灰色の混じり合ったような脳組織がばらばらに飛び散っていく。


「ガアアアアアアアアアアアアアアア」


 眼球はまだ残っていたが、ガジャックの眉より上の部分は完全になくなっていた。脳のほとんどが吹き飛ばされた様は、どこか滑稽にすら見える。

 ふいに、ガジャックの体がびくびくと何度が痙攣したかと思うと、白いもやのようなものが脳のあったあたりから周囲にむかって散っていった。驚くべき速さである。

 そのまま、鈍い音とともにガジャックが倒れた。


「けっ……ざまあみろっ」


 リューンはにいっと改心の笑みを浮かべたまま、その場に頽れていった。

  

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