6 顕現
さしものアルグたちも、これには怖じ気づいたのか、周りを囲んだままリューンが起きあがる間の貴重な時間を有効にいかすことが出来なかった。
ほとんど曲芸のように体を起こしたリューンではあったが、自分がひどく危機的な状況に置かれていることは即座に理解していた。
なにしろすでにアルグは後ろにもまわっているのだ。
全方位を囲まれた場合、一匹ずつと対処しながら戦闘を行うのは不可能である。ようやく勝利を確信したらしいアルグたちが何匹も下卑た笑い声をあげた。
だが、リューンは絶望しない。
考えるよりも先に体が動いている。いままであまりにも多くの戦闘経験を積んできたリューンの肉体はそれ自体が、一つの武器なのである。
まっすぐ、「アルグが何匹も密集している前方」にむかってリューンは駆け出していた。
「死ね猿どもがああああああああっ」
そのときリューンが浮かべていたのは、まさに鬼相、この世の者とも思えぬ悪鬼の形相だった。
前方に集まっていたアルグたちは、どこかで仲間とともにいれば平気だと本能的に感じていたのだろう。だが、そのありえない、一見、もっとも危険に見える方向にむかってリューンは敵中突破を計ろうしていた。
リューンの大剣が、何匹ものアルグたちをなで切りにしていく。まるで野菜でも切り倒すかのような恐るべき無造作さで、アルグたちの首が跳ね跳び、胴体が切断されていく。大量の返り血と肉片がこびりついたまま、リューンはアルグたちの悲鳴の合唱を音楽のように聞きながらユリド・フラスを構成する巨岩の間へと入り込んだ。
瞬時にして、リューンは地上に現出した地獄を見た。
何人もの顔も名前も知っている戦乙女たちの死骸が転がっていた。まだ犯されている者もいた。下半身だけになって死体となっても犯され続けている者もいた。
「おお……おおおおおおおおおおっ」
リューンは凄まじい獅子吼を放った。獰猛なアルグたちをも慄然とさせるような、どんな獣をも恐れさせるような、明らかに人のものとは思えぬ大音声だった。
本能的に、アルグたちはこの相手が「ただの人間ではない」と悟ったらしい。彼らは恐怖の身をすくませ、今度はリューンから蜘蛛の子を散らすように逃げまどった。アルグは獰猛だが、とうてい勝ち目のない相手を戦うほど愚かではないのだ。もっとも、二十匹近いアルグを一斉に退散させた人間など、おそらく有史以来、数えるほどもいないだろうが。
そしてリューンは、あちこちで焚かれている炎の光をうけて浮かび上がっている巨体を目にした。
「それ」は、ゆっくりとこちらを振り返った。
身長そのものは、実際にはリューンよりやや高いといったところだろう。だが、そのはずなのに、かつて戦ったグラワリアの巨人アルヴァドスよりも、相手は巨大に……まさに、巨大そのものに見えた。
束ねられた筋肉の量が尋常ではない。もともとアルグという種族は筋肉量で人間を遙かに超えているが、それにしてもこれはどうみてもまともではなかった。毛皮は内側で膨れあがった膨大な量の筋肉にぱんぱんにはりきっている。体表には無数の血管が浮かんでいた。まさに筋肉の塊としか表現できぬ異形のものがそこには立ちつくしていた。
だが、真に恐ろしいのはその巨体でも、筋肉でもなかった。
凄まじい緑に燃える怪物の瞳には、怜悧すぎる知性が宿っていたのだ。
さらには嗜虐性と残忍さをむきだしにしたような、どのような獣の目にもありえない凶悪さがその緑の目からは感じられた。さしものリューンも、その目で見つめられると全身に走る震えをおさえることができなかった。
さきほどまでは、アルグたちを恐怖させていたリューンではあるが……今度は、リューン自らが恐怖していた。
(これは……無理だ)
冷静な結論を、即座にリューンの意識ははじき出していた。
(こいつには勝てない。絶対に勝ってない。こいつは戦う相手ではない。こいつと戦うのはそのまま死ぬのと同じことだ。絶対に絶対に絶対にこいつには勝てない!)
なまじ優れた戦闘技量と相手の強さを見極める目を備えているために、リューンは絶望的な真実を悟ってしまった。
(無理だ)
同時に、リューンほどの意志力をもつ者ですら抑えられない恐怖に、勝手に体が震え出す。
アルヴァドスと戦ったときにも、リューンは死を覚悟した。これはとても勝てないとさえ思った。
だが、あのときの絶望などいま眼前にいるものに比べれば冗談にもならない。
そう、絶望だ。まるで絶望という概念そのものが実体化し、巨大すぎる筋肉と毛皮の鎧をまとったかのようなのだ。
(これはただのアルグとか……そういうのじゃねえ! 魔獣でもねえ! これは……これは……まさか……)
いま、眼前にあらわれた存在を現す言葉をリューンは知っている。
たとえ、そのなかでは弱小、下級の部類に入るとはいえ、絶対に、決して定命のものには勝てるはずもない存在。
(こいつはアルグの……『神』)
絶望に全身の血潮が凍結した。
ひどい吐き気がやってきた。恐怖のあまり足の筋肉から力が失われそうだ。全身の隅々の血管にいたるまで熱いはずの血液が完全に氷結してしまったかのような感覚だった。
熱病に浮かされたときの驚きべき冷気に似ていると、リューンは絶対の絶望を味わいながら思った。
この相手には勝てない。
それは、ある種の宇宙的な摂理だった。戦闘能力どうこうという以前の問題だった。
水は下から上には落ちない。
太陽は西から東には昇らない。
そういった、あまり単純な、単純すぎるがゆえの巨大な絶望のなかでリューンはただただ無様に、体を恐れに震わせていた。その目からは恐ろしさのあまり勝手に涙すら流れていた。
人は、たとえアルグのものであれ、神には勝てない。
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