7  神の前で

 レクセリアは信じられない思いで、リューンがこのユリド・フラスの輪のなかに生まれた異様な空間に飛び込んでくるのを目にしていた。

 本当に、来た。祈りがソラリス神に通じたのか、あるいはウォーザ神に通じたのか、そんなことはどうでもいい。

 ただ、リューンは確かに来てくれたのだ。


(リューンヴァイス……本当に……本当に私のためにきてくれた!)


 レクセリアとリューンが結婚したのは、言うなればガイナス王の一種の陰謀のようなものだった。二人の意志など関係なく、彼らは形式だけの夫婦となったのだ。

 だが、いつしかアスヴィンの森で魔獣たちと戦い、あるいは逃亡する生活を続けていくうちに、レクセリアの心境に変化が生じ始めていた。

 辛く、苛烈な旅程だった。いや、それはほとんど悪夢とすらいっていいことばかりだった。

 それなのに、なぜリューン軍は一つの組織としてなんかと機能できていたのか。

 言うなれば寄せ集めの集団が一種の極限状況に置かれたことで、一つにまとまらざるを得なかった、というのはむろん、ある。だが、集団が一つにまとまるには、「核」となる人物が必要なのだ。

 周囲はなにくれとなく気を遣ってくれてはいたが、レクセリアは自分がその「核」ではないことを冷静に認識していた。

 リューンヴァイスという一人の男が、リューン軍全員の命を背負っていたのである。

 指導者というものは、それだけで重いものを抱えざるをえない。いくらもともと親分肌のリューンとはいえ、これはいままでのような気楽な傭兵団の団長といった職務とは違うのである。

 その重責に、リューンは耐えていた。

 そして「王」として彼は判断を下したのだ。

 さらわれたこの自分、レクセリアを救出すると。

 実をいえば、あるいはリューンはあえて自分を切り捨てるのではないか、とレクセリアは考えていた。

 そしてそれは、決して間違った判断ではない。最悪、アルグたちを追えばダールの道から外れ、森の外に出られなくなるかもしれない。またアルグたちと戦ってかえって返り討ちにあうことも考える。むしろ、冷静な指導者であればあるほど、レクセリア救出を諦め、切り捨てることを選んだはずだ。

 それなのに、リューンはここにきてしまった。

 ある意味では、愚かしいことともいえる。情勢判断としては、決してこれが最良の策とはいえない。危険ではあるし、冗談ではなくリューン軍が全滅する可能性もある。

 おそらくカグラーンや他の者たちは、このまま先に進むようリューンに進言したのではないだろうか。かといって、レクセリアはカグラーンを恨むつもりはない。むしろ彼女は、一見すると目立たない、冴えないあのリューンの弟に好感を抱いていた。よく言えば豪快、悪く言えば粗放なところのあるリューンの陰でさまざまなこまごまとした実務をカグラーンが担当していたから、リューン軍はなんとか機能していたのだ。さらにいえば、カグラーンには本人が気づいているかどうかわからないが、ある種の将才さえあるのではないかと睨んでいる。

 だから、カグラーンが本気で説得すれば、リューンはあのまま道を進んでいたかもしれない。

 それなのに、リューンは来た。

 自分の命を賭けるのは当然のことではあるが、さらには部下の命すらかけて、助けに来てくれた。

 およそ王たる者のすることではない……とはじめはレクセリアは思ったものだ。

 だが、よくよく考えてみれば、これこそがありうべき「王」の姿ではないのか。

 単純に自分がアルヴェイア王の王妹であり、いわば政事の道具として必要だ、ということもむろんあるのだろう。が、リューンの性格からしてそのまで気にしているかどうか怪しいものだ。

 たぶん、リューンは改めて、この自分のことを「自分の妻」として意識したのではないだろうか。

 夫婦。

 それは形ばかりのことだと思っていた。だというのに、いつしかリューンに自然と心惹かれている自分がいた。

 つとめて表には出さないようにしていた。そうした心を隠し、男などに惹かれる自分に嫌悪を感じたこともあった。

 だが……いまはもう、そうした虚飾はすべてはがれた。

 むきだしになった、まだ十六のみずみずしい少女の心は、自分がリューンのことを一人の男として好きなのだと理解していた。夫婦とか王とか王妹とかそうした立場ぬきに、単純にあの男が好ましく、いとおしい。

 だが、リューンはあの帝王種アルグ……否、「帝王種アルグに宿った神」の前で、完全に萎縮している。

 無理もない。

 いまこうして祭壇から状態を起こした姿でその背中を見つめていても、「神」から発される凄まじいばかりの霊気に肌が粟立って仕方がない。


「ガジャック! ガジャック!」


「オオウ! ガジャック!」


「アアウ! ガジャック!」


 自分たちの「神」とリューンを円形に囲んだアルグたちが、奇声をはりあげていた。やはり「ガジャック」というのは、やはりあの神の名のようだ。

 いまのリューンは、普段の精悍さが嘘のように萎縮し、恐怖していた。その目からは涙すら流し、全身を激しく震わせていた。

 リューンが……怯えている。

 衝撃をうけないといえば、嘘になる。アルヴァドスと戦ったときもリューンは死に恐怖していたことがあった。だが、あのときよりもいまのリューンはいっそうみじめで、まるで狼に喰らわれる子ウサギかなにかに見える。

 だが、それも無理はない。

 いままでどんな魔獣相手でもリューンは堂々と戦ってきた。が、今度の相手は魔獣ではない。宇宙の根本原理、基本の摂理として生物よりも上位に位置する存在……すなわち、神と対峙しているのだから。

 その背中を見ているだけでレクセリアでも震えと怖気がとまらないのだ。あまりにも凶悪な神性の放つ邪気は尋常ではなかった。周囲の空気すらもが、この禍々しいアルグの祖霊神ガジャックの放つ黒く濁った霊気によって汚染されていくかのようだ。


「アヒー! ガジャック!」


「ケイギイ! ガジャック!」


 アルグたちが邪な喜悦をその猿そのものの顔に浮かべながらげらげらと笑っていた。

 あたりで焚かれた火のオレンジ色の光をうけて、巨大なアルグの神が立ちつくしているその姿は、原初の神話の時代の光景さながらだった。このアルグの神の前では、さしものリューンもただの餌に過ぎぬというのか。

 違う、とレクセリアは思った。

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