10 破局
回廊を歩いていく。
民が集まっている。一体、なにをするつもりかはわからないが、少なくとも不平不満を言うつもではないだろう、とナイアス候ラファルは考えていた。
領民は、自分のことを好いてくれている。領民と領主の間に深い信頼関係が生まれるのは、実のところ、アルヴェイアでは希有なことだ。領主によっては領民などただの財産、奴隷のようなものとしてしか見なさないもののほうが多いし、領民にしたところで領主など税をふっかけては遊んで暮らしたり、貴重な男手を戦争のために勝手に駆り出す圧制者に過ぎない。
そうした話は、ラファルもよく知っているし、知人の貴族たちが自慢げに領民を虐待する話をしたときには眉をひそめたものだ。
民とは領主の財産などでは、決してない。それはむしろ、家族のようなものだとラファルは考えている。
ラファルは、あまり家族運に恵まれているとは言い難い。
父は厳格で、母といえば元王女の「あの通りの」人物だ。妻帯したが妻には先立たれ、息子がそれなりに武威と徳望を備えた人物に育ってくれたのがせめてもの幸いというところだ。
だから、ラファルにとって民とは、感覚として自分の一部のようなものである。
民が苦しめば、ラファルも苦しむ。なぜなら彼らはラファルの体の一部であり、たとえば民が苦痛をうければその苦痛はラファルにも感じられるものなのだ。
逆に言えば、民が喜んでくれるさまを見るほどラファルにとって心休まることはない。
痣の殿様と呼ばれていることは、ラファルも知っている。だが、それが「悪意のないものである」こともまた、ラファルは知っている。
(本当かね?)
またか、とラファルは思った。
(本当に本当なのかね? みんなお前のことをこっそりあざ笑っているんじゃないか)
「しつこい」
護衛の騎士たちを気にせずに、露台にむかってラファルは歩き続けた。露台は民衆を見下ろすところにあり、そこから広場に集まった人々の姿が見えるのだ。
(もうすぐだ……ふふふ、もうすぐだよ)
母は相変わらず笑っている。
違う。これは母などではない。母は死んだ。殺した。そして壁に塗り込めた。
だから、これはただの幻聴だ。
(そんなことはない……お前は私に呪われたのさ。これからお前が見るのは……この世の地獄だよ)
また母の無責任な言葉か。なにが地獄だ。自分こそさっさと死の女神ゼムナリアのしろしめすという死人の地獄に堕ちればいいのだ。
(愉しいねえ……愉しみだ……もうすぐお前も……)
くだらない亡者の戯言になど耳を傾けている暇はない。そう思いながら、ラファルは光に包まれた露台にむかって足を踏み出した。
一気に視界が開けていく。天には太陽の姿があった。そこからナイアスの北の都を一望する……とまではいかなくとも、多くの高層建築の上のスレート屋根やごみごみとした路地の姿を見ることが出来た。
そして、露台の下の広場に集まっている群衆が、歓声をあげるのがわかった。
だが……なにかが妙だ。
みな、顔の半分を手で隠している。
まさか、と思ったが、そんなわけがないと思い返した。
まさか。そんなわけがない。みな私を愛しているはずだ。私は慕われているはずだ。
「みなが私の痣そっくりの化粧をしてあざ笑う支度をしている」などということがありうるはずがない。
「痣の殿様!」
一人の男が、拳を高々と突き上げると叫んだ。
「見てくれ……俺たちは、王軍になんて負けない! みんなが一丸となって王軍と戦う! 反逆者と呼ばれたってかまいはしない! 俺たちは王様と一緒に、戦い続ける! 見てくれ、みんなの覚悟を! 俺たちはどこまでも痣の殿様についていく!」
「そうだ!」
「俺たちは痣の殿様と一緒だ!」
なにを言っているのだ、とラファルは思った。
いまさらそんなことを言ってどうする。それだけではない。その先になにかがあるのだ。
痣。
まさか。実は一丸になったとこちらを油断させて……みんなで痣の化粧をして……。
あざ笑うつもりなのか。
違う。そんなわけがない。誰もが自分が痣のことを気に病んでいることは知っているはずだ。そんな無体な真似をするわけがない。
(さあ、どうかね?)
母がげらげらと笑っていた。
(ははははは……これからがお楽しみだ! と思ったらおや、あそこにいるスリフィドを抱えた吟遊詩人……『どこかで見た顔じゃないか』)
そしてラファルは見た。
群衆のなかで一人だけ、豊かな白髪をもつ老いた吟遊詩人が、こちらを見つめているのを。
そして老人の目のまわりには……自分のものと瓜二つの、痣があった。
全身からどっと冷や汗が噴き出すのがわかった。
そんな馬鹿な。嘘だ。これはなにかの間違いだ。なぜあの男がここにいる?
(血だよ……血。血があの男を呼び寄せたのさ。愚かな男でもお前の父親だってことはちゃんとわかっていたんだ)
「嘘だ」
ラファルの声は震えていた。
「痣の殿様!」
老吟遊詩人が、さすがに本職らしくよく劣る声で叫んだ。
「ご覧の通り、私にも侯爵様とそっくりの痣があります。いわば我らは痣仲間。ひょっとしたら、実は侯爵様の父親はこの私かもしれませんなあ」
途端に、どっとあたりが沸いた。過激ではあるが、それは冗談として人々に機能している。うちの殿様が吟遊詩人の子供などであるはずがないのだから。
だが、ラファルにとってはそれはまったく別の意味を伴っていた。
「嘘だ……私は……私の父は……」
おかしい。なにかがくずれ始めている。まるで世界に亀裂が入っていくかのようだ。なにかこれから、あってはならないことが起きようとしている。
「殿様は最高の領主だけど……ただ一つ、その痣だけがまさに玉に瑕! だけど、ナイアスの都の者は……みんな、そんな痣の殿様が大好きなんです!」
吟遊詩人の言葉はなかばほどしかラファルには届かなかった。
なにを言っている。もうなにもわからない。頭のなかが真っ白になっている。
そしてその瞬間、吟遊詩人が叫んだ。
「さあみなさん……侯爵閣下に、みんなの覚悟のほどをお見せしろ!」
いままで顔の半分を隠し、あるいはうなだれていたものが一斉に顔を上げ、ナイアスを見た。
その総数は一千は軽く超えているだろう。広場に入りきらず近くの路地にいるものも集めればあるいは万に届くかもしれない。
その顔にはみな……ラファルと瓜二つの、醜い痣があった。
否、同じ形の痣など簡単にこしらえられるものではない。となれば化粧かなにかなのか。
さらには、幾つもの旗がふられた。
ナイアスの橋の紋章の後ろに……あの痣の形が浮かび上がっている。
「これからも俺たちは侯爵様と一緒に戦います!」
「ナイアス候……万歳! ラファル侯爵閣下万歳!」
そんな言葉などもう、ラファルの耳には届いていない。
痣。痣。痣。痣。痣痣痣痣痣……。
みんな、輝くばかりの笑みを浮かべていた。
(はははははははははははは!)
母が笑っていた。
(言わんこっちゃない! ほらみたことか! みんなお前を、お前の痣を笑い者にしているんだよ! お前の領民は誰もお前のことなんか考えていない! みんなお前をあざ笑うためにこうやって集まったんだよ)
くずれていく。なにもかもがくずれていく。いままで自分がやっていたことはなんだったのか。なぜ領民のために……領民のために、これまで働いてきたのだ。
「うおお……おおおおおおおおおおお」
声にならぬ魂の叫びが漏れた。それはまさに、慟哭と呼ぶにふさわしいものだった。
「おおおおおおおおおおおおおお」
滂沱とラファルは涙を流した。みんなやはり私を笑っていたのだ。母の言うことが正しかったのだ。そうでなければ、誰がこんな大がかりないやがらせをするものか。
そうか。そんなに私が憎いか。私が醜いか。だとしたらこちらにも考えがある。
「弓兵を!」
泣きながらラファルは絶叫した。
「矢をいかけろ! あのものどもに……この私を笑い者にしたものたち全員を殺すのだ! 一人残らず、ナイアスの領民を一人残らず……殺す!」
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