9 民の想い
その日が、自分たちにとって「人生最後の日」となることを、ナイアスの都に住む人々はまだ知らない。
すでに「城」の周囲の広場や路地には、無数の人々が集まっていた。
もともとナイアス候のすまう「城」は、北側の都、ナイアス大橋の北の端にそばに建てられている。北側の都の南西の隅を占めており、もし敵が都の外側の城壁を越えてきても抗戦できるような仕組みになっていた。
だが、ナイアス候が城壁を破られても戦い続けるとは、ナイアスの人々は思っていない。侯爵様、「痣の殿様」にとってはナイアスの民が殺された時点で、戦は負けなのである。
つまり、自分たちのような庶民もナイアス候は「同じように見てくれているのだ」という自負がある。
もし、セヴァスティスのあの陰惨なやり方を他の都が受けていたら、城内はあるいは大混乱に陥っていたかもしれない。ナイアスが切り刻まれて死体を投げ込まれたり、あるいは河面に油を流され大事な橋に火がつけられても耐えられたのは、ひとえに領主に対する信頼感があったからだ。
「痣の殿様の下でなら戦える」
「そうだ……ここで一つ、俺たちは一丸だってことをしめておかないとな」
城下の広場を埋め尽くす人々は、互いに浮き立った様子で話し込んでいた。
そもそも誰の発案になるかはわからない。自然発生的に誰かの頭からこの考えが出てきたのだろう……多くの人々は、そう考えている。
まさかそれが、いま都を包囲している「王軍による謀略」などとはナイアスの人々は知るよしもない。
いや、たとえそうと知らさせれてもみな信じないだろう。「こんなことをしてなにが謀略になるのか」と。
街の名士とも言うべき豪商たちも、普段は路地に転がって人々の慈悲を請う物乞いも、いまは誰もがナイアスの都の住民ということで、一つになっていた。
老いも若きも男も女も、みな顔の一部に、ある「特徴的な化粧」をしている。それは、彼らが一体になるための宗教儀礼にどこか似ていた。
「きっと痣の殿様、感激するだろうなあ」
ふだんはアルヴェイス河の港で働くがっしりとした体躯の荷男が、目を子供のように輝かせていた。
「ラファル様はふだんは静かだけどね……ああ見えて感情が豊かなんだよ」
と自慢げに言うのは、ときおり城に新鮮な魚を収める魚屋の女将である。
「痣の殿様……喜んでくれるよね。でも、なんだか不安で……」
ふと、金髪の一人の少女が、不安げに言った。まだ五歳くらいの女の子だ。
「なんでそんなことをいうんだい? もちろん侯爵様は喜んでくれるよ」
ひどく老いた吟遊詩人が、にっこりと笑った。その老人の顔には、ラファルのものとあまりにもよく似た痣が浮かんでいる。
「そうなの? おじいちゃん」
老吟遊詩人は、微笑みながらうなずいた。
「ああ……ほら、お嬢ちゃん、わしの顔にも侯爵様のとよく似た痣があるだろう?」
「本当だっ」
少女が笑った。
「だからわしには、侯爵様の気持ちがよくわかるんだ。みんなが自分と同じ姿をして、自分を励ましてくれたら……侯爵様は、絶対に感激する」
そういうものなのか、と少女は思った。
もし自分に痣があれば、ひょっとすると侯爵様はかえって馬鹿にされているみたいで機嫌が悪くなるかもれしない、とずっと思っていたのだ。
実をいえば、それは彼女だけが抱いた疑問ではなかった。あるいはかえって逆効果ではないか、と考える者も多少はいたのである。
だが、同時にこれが窮地に陥ったナイアスの都の人々を一丸にする手であることも事実だった。
みなが同じ身体的特徴をもてば……たとえそれがただの化粧にすぎずとも……自然と、連帯感のようなものが生まれる。
少女も安堵の笑みを浮かべると、大人たちの言うことだから間違いない、と微笑んだ。
時として、子供のほうが真実を見抜く目を持っていることがあるのだが、不幸にして少女の慧眼がいかされることは永遠になかった。
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