8  惨劇の始まり

 少なくともエルナス公をナイアスに近づけない時点で、セヴァスティスはやはりそれなりの能力はあるのだろう、とラファルは思っている。だが、この緩慢な城攻めは、あるいは心への戦を仕掛けているつもりなのだろうか。


(わからぬ)


 あるいはわからない、とこちらに思わせることが敵の狙いなのか。実際、相手の真意がわからないときほど、不気味なことはない。


(とにかく……私としてはエルナス公をお待ちするしかない)


 それがラファルの本音だった。むろん、ラファルの頭脳からは「エルナス公が意図してナイアスにこない」などという発想はすっぽり抜け落ちている。なまじ知者であるだけに「そんなことを無意味だ」と思いこんでいるのだ。


(馬鹿だねこの子は)


 また、母の声が聞こえた。

 あたりを見渡すが、城内の広間には、給仕の少年と護衛の騎士がいるだけだ。


(馬鹿だね、エルナス公はとっくにお前のことなんて見限っているんだよ。まだ気づかないのかい? お前はね……ただの餌なのさ、餌)


 愚かな、とラファルは思った。

 死してもなお愚かな母だ。どこまでも愚劣で、王家の血にこだわった醜い女。


(そんなことはない。私は若い頃はそりゃあ美しいものだった)


 誰もそんなことは言っていない。問題なのは、人としてのありようだ。その点、母はあまりにも醜い。


(人としてのありよう? そんなものがなにさね。エルナス公を見てご覧。みんな、あの綺麗な顔にころりと騙されている。人間なんて、所詮は見てくれでしか人を判断できないものなのさ)


「違う」


 思わずつぶやきが漏れたが、誰にも聞かれなかったようだ。

 否、実は護衛役たちの騎士たちは、自らの主人に独り言をいう「癖」があることには気づいている。だが、そうした癖など別に珍しいことではないので、よけいなことを主人には言わないだけだ。


(エルナス公は美しい。だが、みながあの美しい顔ばかり見て、エルナス公の気高い魂を見ようとはしない)


(気高い魂! こりゃあ、また大きく出たものさね)


 母の笑い声が、頭蓋の内側でこだました。


(なにが気高い魂だ! 貴族や王族のやることなんて、悪党や盗賊たちと同じじゃないかね! いくら口でやれ太陽の血、黄金の血だとありがたがったところで……結局は人間さ。私たちは薄汚い人間なんだよ。現にお前の顔にはちゃんとお前の醜さが刻印されてるじゃないかね)


 痣。

 また、その話なのか。一体、いつになれば母は自分から離れていくのか。


(離れやしないよ……私はお前のなかにいるんだ。お前は逃げられない)


 悪霊に憑かれているわけではないと、何人もの魔術師たちに確かめさせた。つまり、これはただの幻覚なのだ。


(お前は自責の念に駆られている。お前は私を殺し、壁に塗り込めた。お前はその罪の意識から逃れられない)


「それはあなたが悪い」


 うつろな石造りの大広間で、ラファルは固い大兎のハムを咀嚼した。

 護衛の騎士たちが主人の言葉に一瞬、反応しかけたが、いつもの癖だと思ったのかまたもとの姿を取り戻す。


(そうだ……あなたが悪い。あなたは悪だ。あなたのような人はナイアス候家にふさわしくない。私にはナイアスの領民を統治する義務が……)


(へっ。領民だって、なにを考えているかわからないよ。みんな実は、お前の痣をせせら笑っているんだよ)


「違う」


 気づくと肉きり用のナイフを、ラファルは木の卓に突き立てていた。


(そんなことはない。領民たちが私を『痣の殿様』と呼ぶことは知っている。だが、それは私を慕って……)


(そもそもお前に痣の殿様なんて呼ばれる資格があるのかね)


 母がまた笑った。


(だってお前の父親は賎しい吟遊詩人……その痣もお前の……)


「黙れ」


 ラファルは、激しく木の卓を叩いた。護衛の騎士たちが、当惑したように互いに顔を見合わせた。


(そんなことがあるわけがない。民は私を慕っている。私の父は先代当主。何度も調べた。間違いない。間違いない。間違いない)


「閣下」


 いきなり、声が聞こえた。

 振り返ると、一人の騎士がこちらを見つめていた。その顔には、微笑が浮かんでいる。

 一瞬、痣を笑われているのかと思い、反射的に顔を隠したい衝動に駆られたが、ラファルは強靱な克己心でなんとかこらえた。


「どうした? 一体、なにが……」


「それが、市民たちが城のまわりに集まっているのです」


 ラファルは眉をひそめた。

 なぜそんなことが起きているのか、心当たりがない。あるいは、糧食の配給を巡って不満を訴えているのだろうか。


「どういうことだ? 暴動にでもなりそうなのか?」


「いえ、それが、その」


 騎士はまだ笑っていた。自分の痣を笑っているわけではないとわかっていても他人の笑顔がラファルは苦手だった。


「そういうわけではないようなのです。どうも、市民たちが自発的に……その、閣下を力づけたい、というか、応援したい、と申しまするか」


 そんな話は、聞いたことがなかった。

 領主が不安な領民を力づけるために派手な宴を開いたり、演説を行ったりするというのならわかる。

 だが、領民たちが領主にむかって、というのは初耳だった。


「閣下は幸せなかたです。そこまで、民に慕われているのですから」


「ふむ」


 やはり、民はちゃんとわかってくれている。

 そう思う。いや、思いたいのだが、母の笑い声がまた頭のなかで鳴り響いた。


(はははは……馬鹿だねお前は。領民たちはみんな、お前をあざ笑いに集まってきたんだよ。痣を笑ってあざ笑いとはよく出来た話じゃないか)


「黙れ」


 領民たちは、領主である自分のことを理解してくれているはずだ。

 そう確信して、ラファルは立ち上がった。

 それが、凄惨な悲劇の始まりだった。

     

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