7  憂慮

 「運命の日」がやってきたとき、今日こそが「その日である」と理解できるものはほとんどいない。

 むろん、たいていの物事には予兆というものがある。事実、ナイアスはすでに六千の王軍による包囲をうけて、二十一目を迎えていた。

 さらにいえば、エルナス公の軍勢もこない。援軍としてエルナス公、ウナス伯、さらには主に西部のアクラ海岸一帯のエルナス公と親しい諸侯が参加すると言われていた友軍は、いまだにこない。

 「運命の日」、ナイアス候ラファルはいつもと変わらぬ朝を迎えていた。

 食欲はほとんどなく、貴族のみが食べる白パンを食べる気にもなれない。もともと糧食がかなりの勢いで減りつつある今となっては、民のことを考えれば自分一人で贅沢な食事をとる気にもなれなかった。


(私は……つく側を間違えたのか?)


 食卓で庶民が食べるのと同じ、セルドラ麦からつくった無発酵の固い黒パンを囓りながら、ラファルは胃の痛みに耐えていた。

 エルナス公は、信用できる人物のはずだった。彼だけが、自分の「痣」の呪い……もはやラファルにとってはそれは立派な呪いとしか思えなかった……を理解してくれた。

 そのエルナス公が、こない。

 ゼムナリア信者などという侮辱をうけて捕縛されても、エルナス公ゼルファナスは青玉宮から脱出し、自領のエルナスの都に戻った。彼にはそれだけの胆力も知力も能力もある。

 であるならば、エルナス公は「こない」のではなく「こられない」に違いあるまい。

 ラファルは決して馬鹿ではない。むしろ有能な領主の部類に入る。だからこそかつて短期間の間とはいえ「六卿」の一人としてアルヴェイアの国政を担うこともできわけだが……。


(やはり、なにかエルナス公はナイアスに近づけぬような事情があるのだ。おそらくは、なにかの策を王軍が仕掛けている)


 それは、ある意味では妥当な判断といえた。

 もしラファルと同じ立場に置かれたものであれば、誰であれ似たようなことを考えただろう。戦術的に見れば、いまはエルナス公にとっても絶好の好機なのである。兵力ではネヴィオンのセヴァスティス将軍麾下の二千五百という「援軍」をもっている王軍のほうが有利だが、現在のような攻城戦の途中でエルナス公がやってくれば、王軍はナイアスの都の軍勢とエルナス公軍の軍勢、二つの軍を相手にして挟撃をうけることになる。

 こんな機会を、エルナス公が逃すわけがない。

 となれば、やはりなにかの妨害策が仕掛けられている。そう考えられるのが常識的な判断というものだった。

 セヴァスティスというあの男は、ただ残虐なだけではない。実際、農民の死体をばらまかれ、またナイアスの誇りであり、象徴でもある橋を焼いたことで……橋そのものはくずれなかったが、民心はかなり動揺している。


(残虐に見えて……いや、残虐でありながら知謀も働く……いやな男を敵に回したものだな)


 実際、ラファルもセヴァスティスの陰湿なやり口には手を焼いていた。

 最近では、市内のあちこちで暴行事件が頻発している。セヴァスティスが城内に送り込んだ「間者」を、市民たちが勝手に捕まえては私刑にしているのだ。

 だが、その「間者」と決めつけられた者が本当にそうかはわからない。


(少なくともセヴァスティスは……人間のいやな部分をよく知っている。これは、あのセムロス伯の知恵ではない)


 それがラファルの、率直な感想だった。

 セムロス伯ディーリンは政治的な人物としては、巨魁といってもいいだろう。にこやかな顔をしながらも、ときおり笑顔の影でみせる凄みは、王国の大貴族でさえふるえあがらせるには十分なものだ。

 ディーリンは生まれついての貴族であり、有能な統治者であり、さらには情に厚いところもある。各諸侯の長所や弱点を見抜き、利をもって彼らを動かす。

 だが、ラファルの目には、ディーリンは致命的なところで、甘さが残っている。

 生まれつきの貴種、ということもあるのだろう。確かに政治的な謀略は得意だが、逆にいえば「そこまで」である。そしておそらく、ディーリン自身、誰よりも自分の弱点に気づいているはずだ。

 つまりは本来が温厚で、温和な人物なのだ。長年にわたりアルヴェイア宮廷という怪物揃いの海を渡ってきたところでずいぶんと鍛え上げられたようだが、それでもディーリンができるのは、戦争の準備をするところまでであり……つまりは、「殺せと命じることはできても自分の手で人を殺すことはできない」種類の人間である。

 むろん、それはそれで人として間違ってはいない。だが、いまのような時代であっては、それは決定的な弱点となるのである。

 だからこそ、自らに欠けたものを補うために、ネヴィオンから義弟のセヴァスティスを呼び寄せたのだろう。

 実際、もしセヴァスティスがいなければ、ナイアスの城壁の内側も、これほどびりびりとした緊張感には包まれていないはずだ。

 セヴァスティスという男は「自分の役割」をこれ以上なく心得ている。


(あの男は……つまりは、恐怖が人の姿をとったようなものなのだ)


 それも人というよりは、飢えた野獣が人に与える類の恐怖である。


(自ら恐怖そのものであることを演じてみせて、市内の治安を乱すような噂を流し、ひたすらにこちらの神経を参らせる……)


 だが、とラファルは思う。

 セヴァスティスはいままでいろいろと小細工をしてきたが、それは決して「致命的なものではない」のである。


(わからん)


 あの獣じみた男の真意が、わからない。

 城内を不安に陥れる。さらには間者を放ったとわざわざ宣伝して人々の猜疑心を煽る。そこまではわかる。だが、「いくらそんなことをしたところでナイアスの民の結束は簡単にはゆるがない」のだ。

 確かに都のあちこちで「間者狩り」にあった、もともとナイアスの民ではない者の死体が転がっている。また、ときおり備蓄していた食糧の配給で、騒動が起きることもある。だが、ラファルの見たところ、市民たちはみな一丸となって、この有事に備えているように見える。


(もしこれがセヴァスティスの謀略ならば……やはり決定打にかける)


 ひそかに外から隧道を掘って城壁を崩そうとしているのではないか。そんなことを疑い、周囲を調べさせたこともあった。また小細工を仕掛けて市内に兵たちの目がむいている間に、どこかに隠していた攻城塔をいきなり大量に運び込んで急襲をかけるのでは、と思ったこともあった。

 だが、現実にはだらだらと日々が過ぎていく。

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