3  苛立ち 

 二十日。

 短いといえば短いし、長いといえば長い時間だ。

 だが、アルヴェイア国王シュタルティス二世にしてみれば、この二十日は二十年にも感じられた。

 そもそも青玉宮の外で長時間、過ごした経験がシュタルティスにはあまりない。むろん、国王の天幕は豪奢なものであり、愛妾のシャルマニアとともに湯浴みすらできるほどのものだが、それでもやはり王宮とは違う。

 ここは一応は戦場なのである。


(エルナス公め……どうせくるなら、さっさとくればいいものを!)


 奇妙なことに、シュタルティスの怒りは戦場に自分を引っ張り出したセムロス伯ディーリンよりも、あの従兄弟にむけられていた。いままではむしろ、ゼルファナスに内心、友好的ですらあったのだが、さすがのシュタルティスも自分の「真の敵」に気づきつつある。

 否、一見は惰弱なだけに見えてなみの者より遙かに聡明な青年は、ゼルファナスが危険な人間だととうの昔に気づいていた。だが、いままでは「従兄弟殿」と一種の甘えを見せることで、自らのなかにあるゼルファナスへの警戒心を抑えていたのだ。

 だが、もうそんなことをする必要もない。


(なにをしている……一体、なにを……)


 エルナス公の軍勢が最後に目撃されたのが十日前だ。それからは、エルナス公の軍勢がどこに消えたのか、さっぱりわからない。

 北方のネス伯領に現れたというのが誤報であることはすぐにわかったが、それから各地から怪しい噂話が届いた。エルナスの都に引き返したというもの、すでにアルヴェイス河の南に渡ったというもの、さらににはアスヴィンの森の近くでなぜか対陣しているという荒唐無稽な噂もある。

 シュタルティスは、軍事に明るいというわけではない。だが、常識的な頭を使えば、ゼルファナスがなにを狙うか、ある程度の推察はできる。なにしろ公式に代入する数値にあまりにも変数が多いので解は複数、出てしまうが、それでも幾つかの解に絞り込むことはできる。


(一番、可能性が高いのは……メディルナスだな)


 そう考えただけで、背筋に冷たいものが走る。不快な想像は追い払いたいが、現実的にはこれがもっともありそうなのだ。

 手酌で金の杯に葡萄酒を注ぎ、シュタルティスは濃い赤葡萄酒を飲み干した。


(こちらがナイアスにはりついている間に、南を大回りに迂回して一気にメディルナスを急襲する……手としてはこれ以上の上策はないだろう)


 なにしろいまのメディルナスの防備はほとんどない。まさにがら空きといった感じである。

 むろん、そんなことはシュタルティスでなくとも王軍のものはみな、理解している。そのため、メディルナスの周囲には幾つもの偵察隊を送り、厳重な警備網を敷いていた。もしメディルナスが危機に陥れば、即座に陣を払って野戦で決着をつけるくらいの支度は出来ている。

 だが、正直にいえばそれはエルナス公にとしてはあまり面白みがない手、そのようにシュタルティスには思えるのだ。

 もっとなにか、こちらが驚くような真似をしてくるのではないか。ゼルファナスというのは確かそういった人物ではなかったか……。

 もう一つ、重要な戦略目標が考えられると、すでにシュタルティスの頭脳ははじき出していた。それは……。

 そのときだった。


「陛下」


 絹製の薄物姿をしたシャルマニアが、わずかに緊張した面持ちで言った。


「父が……いえ、セムロス伯閣下が陛下へのお目通りを願っております。いかがなさいますか?」


「通してくれ」


 寝台に身を横たえたまま、シュタルティスは言った。

 薄暗い天幕に、一瞬、外界からの陽光が射し込む。天幕の一部が開かれ、セムロス伯が入ってきたのだ。

 セムロス伯は、供の者もつれてきてはいなかった。最近ではセムロス伯とあのネヴィオン人セヴァスティスの間にも、微妙な距離が生まれている。


「これは陛下」


 寝台に歩み寄ってくると、ディーリンが言った。


「陛下におかれましては、ご機嫌が……」


「そのような挨拶はよい」


 シュタルティスはけだるげに言った。


「そのようなことより……いまだ、エルナス公の軍勢は……」


「申し訳ございませぬ。いまだ確たる知らせはもたらされてはおりませぬ」


 あのことを言うべきだろうか、とシュタルティスは思った。

 言えば、セムロス伯も平静ではいられまい。そうなれば、なにをし始めるかわからない。だが、なにも言わずにエルナス公だけを一方的に勝たせれば、結局は自らの命が危うくなる……。


「ディーリン卿。余はこのところ、あの反逆者のことを考えておったのだが……あるいはメディルナスよりもよほどこちら……というよりも、セムロス伯にとって痛い急所をあやつらは狙っているのかもしれぬぞ」


「ほう」


 いささか意外そうに、ディーリンが目を細めた。


「陛下もお気づきでしたか。実は……その可能性が高まって参りました。いままでエルナス公の軍勢が見つからなかったのも道理、なぜなら我らはヴィンスより東の一体に集中して斥候を放っていたのです。しかし、未確認とはいえ複数の筋から……エルナス公とウナス伯の軍勢はヴィンスを通った後、アルヴェイス河の南岸に渡り、その後『南西にむかって』進軍していったとの情報が……」


 やはり、とシュタルティスは思った。だが、それならばなぜ、ディーリンはこれほど落ち着いていられるのだろうか。

 ヴィンスから南西に向かえば、セムロス伯の根拠地、セムロス伯領があるのである。

 セムロス伯領は重要な戦略拠点となりうる。だが、ディーリンはセムロスの防御に気を配った様子はまったく見えない。

 自領をがら空きにして平然としていられるなど、まともなこの時代の諸侯の考えではない。普通、貴族にとって領地とは己の体の一部のようなものだからだ。


「なぜディーリン卿はそのように平然としていられる」


 シュタルティスの問いに、ディーリンが穏やかな、「温顔伯」と呼ばれるのににつかしい笑みを浮かべた。


「なぜと申されましても……確かに私にとってセムロスは我が子のようなもの。領民一人一人まで、私はセムロスの民を慈しんでおります。しかしいまは国家の大事、王家の大事なのです。自領にかまけている暇はございませんぬ」


 ふいに、シュタルティスが暗い目をして言った。


「ディーリン卿……正直に申せ。なにを考えている? まさか貴卿は……『自らの領地を餌に使うつもり』なのか?」

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