2  笑う吟遊詩人

 そもそもセルナーダの暦によれば、一月は三十五日である。一月もつように、と定められていたのは、この時代、軍役に駆り出された徴用兵は一月の間、奉仕すればいいという慣例があったからだ。

 その、三十五日もつはずの食料が、三十日を立たずしてからになるかもしれない、という噂が流れている。

 まず、城外からの避難民が予想以上に多かったのが、一つの原因としてあげられる。

 さらに川岸の木造家屋が火事になったときに、近くの食料貯蔵庫が焼かれ、それで糧食が失われた。王軍はそこまで計算して河に油を流して火をつけたのだという説もある。

 いまはまだ、食い物に困っていないからいいようなものの、じりじりと、言いようのない人々の不安感が増水時のアルヴェイス河の河面のように押し上げられつつある。

 いつ、それが人々の自制心という堤防を越えて決壊するのかは、誰にもわからない。

 さらには、街の外からきた路上で寝泊まりする避難民と、もとからナイアスに住んでいたものたちとのいざこざも絶えなかった。避難民のなかには王軍の間者ではないかと疑われ、殺された者も少なくないという。

 いずれにせよ、これから十日、つまり食料がつきる前にエルナス公軍がやってこなけれは大変なことになる……人々は人間の生物としての本能的な直感で、そのことを鋭敏に感じとっていた。


「へっ……まったく、もう少し景気のいいことはないのかね。なあ、爺さん! あんたもなんか、景気のいい歌でも歌ってくれよ」


 男の言葉に、酒場の隅の卓に座っていた老人が眉をひそめた。


「はあ? すいませんのう。わしゃ、すっかり耳が遠くなって……」


 途端に、酒場のなかにいた男たちが笑った。


「まったく……耳の遠い吟遊詩人ってのも大したもんだなあ」


「おまけにひどい音痴ときてる……わくそんなんで吟遊詩人なんてつとまるもんだ」


 確かに老人は、ここで何曲か歌を披露したがとても聞けた者ではなかった。


「それでもわしゃあ、昔は青玉宮に招かれて、歌を歌ったりしたものですよ」


「へっ法螺だけはいっちょ前か! まあでも、ほら話で人を愉しませるのも吟遊詩人の芸のうちか」


「ほらだなんて」


 老人がむっとしたように言った。

 年齢のわりにはかくしゃくとしており、背筋もぴんと伸びている。顔立ちもなかなかに整っており、白くなったまだ豊かな髪が顔の半ばを覆っていた。


「わしゃあ、これでも昔はもてたもんですよ。貴族の姫様や……やんごとなきおかたと一夜を共にしたことも」


「爺さん、いくらなんでもそれはない」


 男たちが笑った。


「確かに美男だったみたいだが……いくらなんでも法螺がすぎる」


「信じてもえませんかのう」


 老吟遊詩人はスリフィドと呼ばれる楽器を奏で始めたが、その曲はひどいものだった。あるいは耳が遠いだけではなく、惚けが始まっているのかもしれない。もっともこの時代、惚けるまで長命を保つ者自体、ほとんどいなかったのだが。


「若かりし頃はあちこちの姫様と浮き名を流したものですが……」


 そう言って、老人が白髪をかきあげた。

 なるほど、自分で言うだけあって、やはり老人はもともとはたいそうな美男だったらしい。


「ただ、いろいろとありましてな。青玉宮を追放されて、いまは流浪の旅ガラス……それがまさか、こんな戦に巻き込まれて足止めをくらうとは」


「はん、爺さんも運がないね。まあ、間者だと思われないだけまだましだと……」


 そのとき、痩せた男が驚いたような声をあげた。


「おい……爺さん! その目のまわりの……痣! なんだそりゃ!」


「痣?」


 老吟遊詩人がとぼけた口調で言った。


「ああ、そういえばそんなものがありましたなあ。なに、昔はこの美男、得体のしれぬ痣があるゆえかえって神秘的とかで幾人のおなごにいいよられたことか……」


「いや、そりゃいいんだが」


 男が言った。


「それ……なんか、うちの侯爵閣下の痣に、形がそっくりだ」


「ああ、言われてみればそうだ」


「はっ、おかしなこともあるもんだな」


 一同は苦笑した。


「案外、この爺さん、あちこちでお姫様の寝台に招かれたって言っていたから、うちの痣の侯爵閣下もじいさんの隠し子だったりしてなあ」


 下品な冗談に、一座はどっとわいた。


「まあともかく、同じ侯爵と同じような痣を持つ吟遊詩人がいるってのは……なんていうか、吉兆じゃねえか」


 一人の男の科白に、何人かが賛同した。


「だなあ、っていうかそういえば……例の話聞いたか? ほら、いまは一体になるのが大事じゃないか。それであのマラウゴス通りの鍛冶屋とかがみんなで……」


「ああ、聞いた聞いた。みんなで……って奴だろう?」


 一同はくすくすと笑い声をたてた。


「うちの殿様も、あれを見たらきっと感激するんじゃねえか!」


「あのお人、普段は堅苦しく見えて意外と感激屋って話もあるからなあ」


 老吟遊詩人が、いぶかしげな顔をした。


「はて、それはいったい、どんな話ですかなあ?」


「いや、なにね……」


 男たちは老人にナイアスの都のものたちが侯爵を勇気づけ、みんなで一体となるための「策」を教えた。


「おお……なるほど……それはいいお考えだあ! きっと侯爵閣下も喜ばれるでしょうなあ!」


 老人の言葉に、男たちはうなずいた。


「な、あんたもそう思うだろう! そうだよ、あんたなんて『自前で痣を持っている』じゃないか。あんたも協力してくれないか」


「ええ……もし、私にできることがあれば」


 老吟遊詩人はそう言うと、にいっと笑った。




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