第三章 狂気のナイアス
1 持久戦
六千の軍勢に包囲され、すでに二十日が過ぎていた。
天からの日射しも、そろそろ夏の強いものに変わりつつある。
二十日。
籠城期間としては決して長いものではないが、ナイアスの街の人々の精神的緊張は、ほぼ限界に達していた。
なにしろ連日のように、外からばらばらにされた人間の体が降ってくるのだ。そのなかに不幸にして家族の姿を見いだしたものや、すでに腐りかかった子供の頭を抱いて歩き回る、農村から避難してきたらしい男などもいた。
士気は最悪、といっていい。
むろん、ナイアスの人々も、それこそがこの異常な「戦術」の目的だとすでに気づいている。つまり、王軍は直接的にこちらを攻撃するわけではなく、精神的に参らせようとしているのだ。
実際、狂気を司るホスに憑かれた、とはいわぬまでも、城内の人心はかなり荒廃していた。
なにしろナイアスは現在、五万を超える人口を収容している。五万という数字は、人心が一つにまとまるためにはいささか多すぎるのだ。
さらに連日のように、王軍のほとんどいやがらせに近い攻撃は続いた。
アルヴェイス河の上流から、無数の樽が流されてきたことがある。むろん、王軍のなにかの仕掛けだとわかっているのでナイアスの人々は手出しをしなかった。
船をとめるための鎖のあたりで止まった無数の樽から、やがて虹色の光を照り返す液体が溢れ始めた。それが油だ、と気づいたときには、もう遅かった。
たちまちのうちに外から油まみれの川に火矢が射かけられ、アルヴェイス河は三日三晩、紅蓮の炎に包まれた。
まさに蛮行である。
なによりナイアスの人々を憤激させたのは、その炎がナイアスの民の誇りであり、この都の象徴ともいえる「ナイアスの大橋」を黒く焦がしたということだ。さらに炎は水辺の木造家屋などにも延焼し、人々は消火作業にやっきになった。
ナイアス大橋は魔術により強化されているため、炎による攻撃には耐えた。というよりも、王軍も別に橋を崩したいわけではない。この橋は戦略的にきわめて重要なため、後々使う腹づもりのはずである。
つまり、わざとナイアスの人々を怒らせ、あるいは焦慮させて、精神的な持久力を奪おうとしているのだ。
さらには街中には奇妙な噂がいつしか流れ始めた。
「開城すれば、命は助け財産も奪わない。我らは王軍であり、ナイアスの民の命を奪うような無法はしない。ただし、もし開城せねば、その命は保証できない」
王軍はそんなふうに城壁の外で触れ回っているのだという。
ある意味では、「敵」の意図はわかりやすいともいえた。力責めではナイアスの城壁を崩すのは無理、おそらくそう判断したのだろう。だからこそ、内部を動揺させ、士気をそぐような手をとってくる。
そしてそれは、たとえば「黒い雄牛亭」といった安酒場にたむろする男たちの馬鹿話にも、影響を与え始めている。
「なあ……やっぱり、ここは降伏したほうがいいんじゃねえのか」
一人の男が顔をしかめて言った。
「よく考えてみりゃ……相手は王様の軍隊なんだ。ということは、ナイアス候も俺たちも反乱軍、反逆者ってことになる。もしこれで負けたりすれば……それこそ、俺たちはあの外から降ってくる死体みたいに、なますに切り刻まれちまうぞ」
「馬鹿言え! お前、痣の殿様を裏切るつもりかよ!」
「そっそういうわけじゃねえよ……ただ、なんていうかよ……殿様だって、ちょっとは悪いところがあるだろ。やっぱり王様に刃向かうってのはよくない。しかも今回は、王様がわざわざ自分で軍隊連れてきたっていうんだろ?」
こういうときにこそ、ディーリンの考えたとおり「王による親率」というのは深い意味をもってくるのである。
「あの臆病で知られた王様がそこまでするってのは、よっぽどのことだぜ? これは、万一、戦に負けたりすれば……」
「お前、いい加減にしろよ! そりゃこのままじゃまずいのは、みんなわかってる。でも……いずれエルナス公が……」
「それだよ、それ! 俺が言いたいのはよ! エルナス公がくる、くるって言われてからもう十日近いのに……まだこないじゃねえかよ!」
座が、しんと静まりかえった。
「エルナスからナイアスまで、いくらなんでも二十日あれば、そろそろ軍隊がやってきてもおかしくない! それなのに……なんでエルナス公はこないんだ!」
「そりゃお前……その……」
「可能性としちゃあ、エルナス公が手前のヴィンスでひっかかってるってのがある。ヴィンスのあの黒真珠の侯爵夫人は、王様の側についているからな! でも噂だとヴィンスはあえて素通りして、そのまま東にむかったきり……エルナス公は行方不明だ」
「なんだよ、行方不明って」
「だから、そのまま消えちまったんだよ」
「けっ、そんな馬鹿な話があるか!」
「いや、実際に消えたわけじゃなくて、どうもエルナス公は間者とか密偵とかを捕まえて、自軍の居場所を知らせないようにしているらしい。それと、ネスのほうに現れたって話もあるし、アルヴェイス河の船を連ねて軍勢を河の南岸に渡したって話もある……だが、いずれにせよ、現実にエルナス公はまだきてないんだ」
それは、ナイアスの民であれば誰でも知っていることだった。
エルナス公とウナス伯の軍勢は、総勢四千だという。王軍に比べれば少ないが、それでも野戦戦力としては十分すぎるほどだ。
現在、ナイアス城内には五百ほどの兵しかいない。だが、この五百を城内にとどまらせ、城攻めをする王軍をエルナス公軍と挟み撃ちにすれば勝機は十分にある。
またもし城攻めを諦めて王軍がエルナス公軍と野戦で決着をつけると決めた場合、ナイアス候家の五百の兵が城門から出て後背を攪乱させる、という手もあるのだ。
つまり、エルナス公軍がくれば情勢は一気に逆転する。
はずなのだが、その肝腎なエルナス公軍がこないのである。
「そろそろ……食い物とかきつくなってきたって話もあるしな」
もともと、ナイアス城下は、最低、一月は籠城にたえるだけの食料を備蓄していた。これは代々の王から下されたものであり、万一、西からメディルナスを侵入をはかる敵軍がいた場合、ナイアスの城都こそが最終防衛拠点として考えられていたのだ。
その王軍が敵にまわっているのだから事情は皮肉としかいいようがない。だが、一月もつはずの食料の備蓄は、大幅に予定よりも多く消費されているのだ。
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