11 霧
白い闇があたりを取り巻いていた。
おかしい。確かさきほどまではあたりは紅い夕暮れの光に照らし出されていたのだ。まるで血に浸したような色合いに魔の森は染め上げられていたはずなのだ。
黄昏のあとには、真っ暗な夜がくるはずである。にもかかわらず、あたりには乳白色の霧が立ちこめている。
(おい……なんだ、こりゃあ……)
また怪異か、とリューンは思った。
アスヴィンの森に入ってから、いわゆる魔獣たちの襲撃ともなる怪奇現象にリューンたちは立て続けに遭遇していた。
なにもない場所から、笑い声が聞こえてくることがあった。また、血の雨とおぼしきものが降ってきたこともあった。さらには森の底の土がいきなりどろどろの流砂のようになり、それに呑み込まれた者もいた。
だが、こんな妖しい霧のなかに足を網入れたのは初めてである。
自然現象とは思えない。怪異とは、魔術宇宙である現世と重ね合わせになった世界のひどいひずみによって起きるという。通常の魔術師たちが使う魔術と基本的な原理は似たようなもので、ただそれが特定の「場」などに固定されたものが、怪異と呼ばれるのだとレクセリアとともに行方不明になった、あのヴィオスなどは言っていた。
しかし、よりにもよってこんなときに霧に取り囲まれるとは。
本当に、あっという間のことだった。黄昏の紅い光に浸されたような世界が、突如、乳白色に濁り始めたのだ。まずい、と思って集団で固まれで命令を下したが……気がついたら、四方を霧で囲まれていた。
「なんだこりゃ! くそっ、いまのはこんな霧のなかで彷徨っている場合じゃねえんだ」
リューンは苛立って思わず叫んだ。
「おいみんな、大丈夫か! カグラーン! メルセナ! イルディス! クルール! アシャス! カイヴァス! トゥリア! ハイファーナ!」
何人か、現在のリューン軍のなかでも主立ったものたちの名を呼んだが、返事はない。
肥満体のクルールの、あのなじみ深いどもった声も聞こえなければ、アシャスの場合によってはひどく不吉にも聞こえる馬鹿みたいな哄笑も帰ってはこないのだ。
「おい……誰か! 誰でもいい! 誰もいないってのか!」
だが、リューンの声はこだますることもなく、まるで霧のなかに吸い取られていくかのようだった。
まずい。
まさか、こんな霧が出るとは思わなかった。
集団でかたまって動けば一同がばらばらになる可能性は低い。そのため、アスヴィンの森に入ってから、リューンたちは常に、他人の位置を確認しながら動くようになっていた。だというのに、他の連中の声が返ってこないのは……。
「おい……冗談だろう?」
さすがに剛胆なリューンの心でも、いままではりつめていたなにかがぶちんと音をたててちぎれそうになった。
「なんだよこれ……おい、これじゃあ、まるで……」
ちりぢりになったあげく、全滅。
最悪の予想が、すでに現実の、生々しい可能性となりつつある。
冗談ではなかった。こんな魔物だらけの森で迷子になり、魔獣やアルグの餌になるためにいままで生きてきたつもりではないはずだ。こんなことは、断じてありえない。
「おおーい! 誰か! 誰かいねえのかよ! 誰か!」
そのとき、霧の向こうからふいに黒い人影が現れた。
「おい! お前は誰だ! お前は……!」
そのとき、相手が「ただの人間ではない」ことに気づいて、リューンは慄然とした。
「お前は……」
「私を……お忘れですか、団長」
その男は、眼球を白濁させ、顔には何本もの矢が突き刺さっていた。いや、顔だけではなく体の全面にびっしりと植え込んだかのように矢が突きたっている。ところによっては、矢の直撃をうけた衝撃で周囲の肉ごとごっそりと欠けているところもあった。
「お忘れですかって……お前」
どこかで見たような気もする。
だがどこでだったか。いつだったか。確かに顔は知っているのだが……。
「俺は団長を男として慕っていた。この人のもとについていけば、いずれ大したことをしでかすに違いないってわくわくしていた。それなのに俺のことを、団長は名前すら覚えてさえいない……」
げらげらと、矢で体を針鼠みたいにさせた死者が哄笑を放った。
「でも知ってますよ……団長はね、そういう人なんだって。いろんな奴らが団長に憧れる。団長に夢を見る。この人はすごい人だって想う……でも……『団長はそんな俺のことを名前すら覚えいていない』んだ」
そんなことはないと叫ぼうとしたが、出来なかった。
なぜなら、彼の言っていることはまったくの事実だったからだ。
「もうわかっているからいまさら恨み言はいいたくないですがね……そりゃ、俺も少しは化けてでたくもなりますよ。なにしろ俺は、団長を守るための盾にまでなったってのに……」
盾。矢。なにかが記憶の隅をかすめていた。
そうだ。なにかそんなことがあった気がする。あれは、確かレクセリアと初めてであった……。
「フィーオン野、ですよ」
死者が笑った。
「フィーオン野で、団長の前にいた俺は、王国軍の矢をくらって、死んだ。団長はとっさに俺の下に潜り込んで、俺を担ぎ上げて、そして俺を『盾として使って』生きのびた……これでわかりましたか?」
リューンはうめき声をあげた。
「そういや……そんなこともあったな……でも、あのときは仕方なかった。別に悪気があったわけじゃねえんだよ」
それはまったくの本音だった。
「でも……お前だって、わかっているはずだ。傭兵ってのは、生きのびるためなら仲間の死体ですら使う。そういうもんだって」
「ええ……ですから俺も、恨み言を言いにきたわけじゃない……ただね、団長……これから、一体どれだけ『俺みたいな死人』をつくるつもりですか?」
死者に改めてそう問われ、リューンは慄然とした。
「別に、俺はやりたくてやってるわけじゃ……」
「ええ、そうでしょうとも。団長はいつもそうです。自分のやりたいように、自由に戦う。団長にグチを言っても仕方ないってのもみんなわかっている。いや、そんな団長に憧れている者も多い……けど、団長はね、そういう奴を『悪意はないにしても結果的には殺してしまう』んですよ……」
リューンは思わず息を呑んだ。
実をいえば、それは最近、彼自身もひそかに気にしていたことだからだ。
「団長は、かりそめとはいえ、王になった。これから誰もが認める、僭称王なんて呼ばれない本物の王様になるためにはもっともっともっともっと俺みたいな奴らがいるでしょう……」
そのときだった。
霧の奥から、無数の人影が澎湃とわき起こった。
こちらに近づいてきたものたちはみな……無惨な死体ばかりだった。
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