9 地獄の森
(王たる者は、民のことをまず考えねばいけません)
民。それはどんな相手のことなのだろう、とレクセリアは思った。
(民とは、貴族や王ではない、ごく普通の人々のことです。たとえば殿下が食べるパンも、農民がネルドゥ麦を蒔いて育て、粉をひき、練り上げて焼き上げてできるものです。それらはみな、民がいるから成り立つこと)
(それじゃあその民というのは偉いの?)
レクセリアの問いに、ヴィオスがにっこりと微笑んだ。
まだ若い。いまのようにやや小太りといった体型ではなく、ほっそりとしている。青いローブに身を包んだこの宦官を、青玉宮の多くの者は嫌っているようだが、レクセリアは好きだった。
ヴィオスはなんでも知っている。本当に驚くほどにいろんなことを知っているのだ。この世界の神話や歴史、伝説、どこにどんな人々や種族が住んでいるか、さらにはアルヴェイア王国の貴族の家門の家系についてもよく知っている。
おまけに、魔術師でもあるのだ。
神々よりも、ヴィオスのほうが神々に近しい存在だ、とソラリス神への礼拝を行うときなどにレクセリアは思ったものだった。
鬱金色の法衣をまとい、額に太陽冠をつけたソラリスの僧たちは、どこか尊大な感じがした。むろん、レクセリアは王家の姫のため、誰もが下にもおかぬ扱いをしたが、ソラリスの僧侶たちだけはどこか醒めた様子でレクセリアに接していたと思う。
(ですがそれは仕方がありません。ソラリスは、殿下の祖先にあたる神でもあります。太陽の神ソラリスこそが、神々の王であり、あの空に浮かぶ太陽……とされています)
ソラリスの僧侶について語るとき、なぜかいつもヴィオスは皮肉っぽい笑みを浮かべる。
(でも……ソラリスの僧侶は、なんだが私を嫌っているみたい。なんでなの?)
(それは……その、殿下の御目が)
目。
知っていた。自分の目が、周囲からどこか気味が悪いものでも見るように見られていることはとうの昔に理解していた。
(嵐の王とか……なんのことなの?)
(なに、昔からの迷信ですよ)
ヴィオスは笑った。
(殿下のような目をもつ者が、いずれ『嵐の王』と呼ばれる王になるというのです……ですが、具体的に『嵐の王』がどんなものなのか、詳しくはわかりません。ただ、嵐のような王ですから、良い王かどうかはわかりません。あるいは戦だけを好み国を滅びに向かわせるようなものかもしれず……)
それではまるでガイナス王だ、とレクセリアは思った。
ガイナス王。それは、誰だったろうか?
いや、そもそもここはどこだ? 一体自分は、いまどこにいるのだ?
誰かがこのまま目を覚ますなと言っている。
ということは、ここはどこか……良くない場所なのだろうか?
たとえば、メディルナスの北に広がる魔の森、アスヴィン大森林のような……。
目が醒めた。
あちこちに炎が焚かれているのがわかった。
闇のなかで、オレンジ色の炎が激しく音をたてて燃えている。
しばし事態が理解できなかったが、ようやくレクセリアはいま、自分が置かれている状況を認識した。
(アルグに……アルグたちに捕らえられた)
途端に、心臓が凄まじい勢いで鼓動していく。アルグというのがどんなにおぞましい生き物なのか、レクセリアはもともと知識として知っていたし、このアスヴィンに入ってからは実際にその目で彼らの残忍さを目にしてきた。
四肢の自由はきくようだ。また、衣服もまだ身につけていることから少なくとも陵辱や拷問をうたけ様子はない。
少なくとも、いまはまだ。
(落ち着け……落ち着いて、状況を……)
ここで恐慌に陥ったら、負けだ。それはすなわちアルグたちに完全に屈し、おぞましい運命を受け入れるのと同じことなのだ。
どうやら、なにかの石で作られた祭壇のようなものの上に身を横たえているらしい。周囲の闇に目をこらすと、あちこちで焚かれる焚き火の炎らしいオレンジ色の明かりをうけて、巨石が幾つも、まるでレクセリアのいる祭壇をとりまくようにして建てられていた。
(これは……ユリド・フラス)
ユリド・フラスとは、かつてセルナーダの地にやってきたネルサティア人たちが、先住民の遺跡らしいもの見て名前をつけたものだ。ユリド・フラスは巨岩でつくられており、円形や直列に石が建てられ、並べられていることが多い。なにかの魔術的な祭祀遺跡らしいことはわかっているが、すでに当時の先住民たちにとっても、ユリド・フラスは近づいていけない禁地になっていたという。
ユリド・フラスについてはさまざまな説があるが、その周囲の魔術宇宙に著しい歪みが生じていることから、なにかの強力な魔力が宿っていることは間違いない。先住民たちの伝説によると、呪術王と呼ばれる強大な呪術師が、神々すらも操るような恐ろしい魔術をふるい、人々や精霊を支配したという。いまセルナーダの地に住む魔獣の多くが、この呪術王たちが戦闘用に改造した獣ではないか、というのが賢者たちの間では有力な説となっていた。
あるいは、アルグもそうした呪術王たちによって生み出された種族なのだろうか。いずれにせよ、彼らがユリド・フラスや古代の謎めいた遺跡を聖地として使っていることはレクセリアも知っていた。
だが、レクセリアの周囲に広がる情景は、およそ聖地という感じではない。
まさに不浄の極み、おぞましく、邪悪な神々に捧げられた地、といった感じがする。
悲鳴をあげなかったのは、レクセリアの胆力のなせる技だった。一瞬、口から迸りそうになった絶叫を危ういところで押さえ込む。ここで一度、叫んでしまえば恐怖の虜となりもうなにも考えられなくなるとレクセリアは本能的に悟っていた。
だが、並みの神経の持ち主であれば、この情景を見ていったい、どれほどの正気を保てるというのか。
それはまさに、地上に現出した地獄に他ならなかった。
何匹ものアルグたちが、いっそ無邪気とさえ思えるような声をあげながら、何人もの人間を解体している。
人間はみな、リューン軍に属する者たち……あるいは過去形で呼ぶべきか……だった。兵士たちの死体からはすでに衣服が剥がされ、皮膚がむかれている。
生々しい桃色の筋肉組織や黄色い脂肪層をむきだしにした人体が、すでに幾つも並んでいた。それを兵士たちから奪ったらしい剣などで、何人ものアルグが切断している。なかには誰が死体の肉を切り分けるかで、喧嘩……というよりも血みどろになって殺し合いをしているアルグたちもいた。
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