3 戦えぬ王
アルグというのは、要するに人間並みの知性がある猿である。
その全長は、通常、五エフテ(約一・五メートル)ほどだが、実際にはみな背を丸めているので小柄に見える。
ただの猿なら意外と弱いのではないか。つまりは数に頼んでやってくる雑魚の群れではないかと、人間相手にしか戦ったことのない経験の浅い傭兵たちは考えるものだが、それは間違いだ。
基本的に、アルグの身体能力は人間を遙かに凌駕している。膂力も強く、その爪の一撃は人の肉をあっさりと切り裂く。さらにいえば驚くほどに敏捷で、しかもありとあらゆる卑怯な手を使ってくる。
なまじ人間に似ているため、アルグと乱戦になった場合、かえって感覚を狂わされる者も多い。人間のような相手だと思うと、その速度に幻惑される。かといって野生の獣と思えば、今度は集団戦術に翻弄される。
最悪の魔獣。そうアルグのことを呼ぶ者たちがいるが、それは決して間違ってはいなかった。
「この……くそ猿どもが!」
何匹ものアルグたちが、リューンのもとに殺到していく。
彼らはすでに、このリューン軍を率いている「長」が誰かを把握している。リューン一人さえ殺せば、残りはただの烏合の衆になると理解しているのだ。
だからこそ、リューンを狙って集中攻撃をかけてくる。
「みな、リューン王をお守りしろ!」
「リューン王を!」
かつてはガイナス王に仕えていた稲妻の女神ランサールに仕える槍乙女たちが、リューンの周囲に即座に防御陣を敷く。彼女たちは女神への祈りの言葉を唱えると、槍をアルグたちめがけて水平にした。
何本もの槍の穂先から、高圧の稲妻が迸っていく。その紫の光条が、まばゆくあたりを紫がかった白い色に染め上げた。
「ギジャイッ」
「アッガシュッ」
雷光の直撃をうけたアルグたちが、茶褐色や黒といった毛皮に覆われた四肢をむちゃくちゃにふりまわして森の底の腐葉土の上に頽れていく。毛皮と肉が焼ける凄まじい悪臭があたりに漂った。湯気がアルグの体から立ちのぼっている。なかには心臓に電流が流れたのかそれからぴくりとも動かないアルグたちもいた。
だが、槍乙女たちが仕留めたアルグたちは、全体からすればごく一部にすぎない。
「兄者……こりゃあ、こいつら少なくとも百匹はいるぞ」
カグラーンがこの状況でありながら、比較的、冷静さを保った声で叫んだ。
彼もリューンの弟であり、伊達に雷鳴団の副団長をかつて務めていたわけではない。剣の腕は大したことはないが、肝っ玉はそれなりに据わっている。
「わかってるな、兄者! 前には出るなよ! 兄者は俺たちの王様なんだ! 兄者がやられたら俺たちはおしまいなんだ!」
「わかってるよ!」
そうは言うものの、周囲に幾重もの人垣が即座に生まれ、リューンとアルグたちを隔てるというのは、正直にいって愉快な気分ではなかった。
(くそ……俺にも戦わせろ!)
このアスヴィンの森でリューンをなにより疲弊させたのが、この重圧感である。
己の命が、あまりにも重すぎる。
いままでのリューンは、ある意味では自由だった。雷鳴団の隊長とはいえ、所詮はいつ戦場に屍を晒してもおかしくはない傭兵である。むろん、自ら死ににいくような愚かな真似はしないが、それでも戦場の熱狂のなかにいると興奮してわけがわからなくなり、気づくととてつもない数の敵を殺している。リューンの嵐のような勢いに巻き込まれて敵軍深くに突っ込んだあげく、返り討ちにあった仲間も少なくはない。
だが、いまはもうそんな戦いではできないのだ。
(くそっ……なんだ、これは! なんだっていうんだ! 俺にもやらせろ! 俺のほうがお前らなんかよりよっぽどうまくこの猿どもをたたきのめしてやる!)
それが理不尽な言い分であることを、誰よりもリューン自身が痛感していた。
(畜生! 理屈じゃわかってる! 俺が最前線なんかに出ちゃならないってことは! でもよ、なんかこれは違うだろう! 俺は、これじゃあまるで……)
部下たちの命という名の鎖によって、がんじがらめにされているようだ。
アスヴィンの森の魔獣や怪異との戦いによって、リューン軍はさらに一つの塊、機能的な集団となって動いていた。連続する極限状況が、生まれ育ち、性別などがばらばらな者たちを見事に一つの集団へとまとめ上げたのである。
その中心にいるのが、リューンだ。
だが、そのリューンこそが一番、孤独感を感じているのだから世の中はやはり皮肉に満ちているというべきだろうか。
みながリューン王と呼んでくる。彼を対等な人間として扱ってくれるのは、形式上の妻であるアルヴェイア王妹レクセリアだけだ。
(戦わせろ!)
何人もの兵士が、アルグにのど笛を噛みちぎられている。鮮血の濃い匂いが暗い森の底に満ちていった。草いきれや湿った苔の匂いと血臭、そしてアルグの獣じみた凄まじい体臭が混じり合う。
「ガジャック!」
「アッジャグラル!」
ひどく耳障りなアルグの言葉を聞いているだけで、リューンの意識は沸騰する。それなのに、戦えない。
アルグは基本的に武器をもたない。ごく稀に、人間から奪ったとおぼしき錆びた剣などを使うアルグもいるが、たいていは素手だ。だが、その手の先についたかぎ爪は恐ろしく鋭く、くわえて彼らの筋力は尋常ではない。
「ああっ!」
いまも一人のランサールの槍乙女の頭を、アルグが五本の長い指でわしづかみにしていた。
不幸にして、この槍乙女は金属製の兜をかぶっていなかった。黒褐色の毛皮をもったアルグが、凄まじい力をこめる。毛皮の下で脈打つとてつもない量の筋肉がふくれあがり、二の腕や胸のあたりがぐっと盛り上がった。同時に槍乙女の頭蓋骨にひびが入る、忌まわしい音が鳴る。
「た……すけててててててててて」
すでに槍乙女は脳に損傷をうけているようだった。言っている言葉がおかしなことになっている。さらにアルグが力をこめると、やがて槍乙女の頭は熟れすぎた果実を石畳の上に叩きつけるかのように、爆ぜ割れた。
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