2  アルグ

「ちっ」


 思わずリューンは舌打ちした。

 どこか遠くから、もうここのところいい加減、聞き慣れた、甲高いアルグの歓声が聞こえてきたのである。


「またあの腐れ猿どもか……奴ら一体、いつまで俺たちをおっかけるつもりだ」


 それを聞いて、リューンの傍らにいた少女が、体を震わせた。


「アルグ……知識としては知っていましたが、まさかこれほどに恐ろしいものだったとは……」


 空のように青い右目と、銀色にも見える灰色の左目という、異相の持ち主である。顔立ちはまるで人形のように端正に整っていた。さすがにこの森をうろついているうちに体のあちこちに汚れがつき、ドレスの下半分などはあるくのに邪魔だったので自分で切ってしまっていたが、それでも一人、他の者たちとは明らかに異なる、高貴な霊気のようなものを発している。

 アルヴェイア王国王家の王妹レクセリアだった。

 金色の髪がそれなりに整えられているのは、世話をする宦官魔術師のヴィオスがいるからだ。もし彼……といっても宦官だが……がいなければ、いまのレクセリアは美しい野生の少女のような外見になっていたかもしれない。


「アルグは……今度は、かなりの数で追ってきているようですね」


 レクセリアが眉をひそめると言った。


「数十……いえ、あちこちから声が来ます。下手をすれば、これは……」


「百は、越えていると思うぜ」


 リューンは舌打ちした。

 アルグは、通常の魔獣と違ってひどく厄介な点がある。

 普通、魔獣は単体でむやみに襲い掛かってくるか、あるいは火炎狼に率いられた狼たちのように群れでこちらを駆ろうとするが、所詮は彼らは獣の群れにすぎない。

 だが、アルグは違う。

 アルグには、恐ろしい話だが、知性というものがあるのだ。セルナーダ語には「アルグのように悪賢い」という成句が存在するほどに、彼らは狡猾であり、さらには人間を超越した嗜虐性を持っていた。

 いまではアルグの群れに取り残されたようになった負傷者は、みな殺してやることにしている。下手に生き残っていた場合、アルグはその者に凄まじい拷問を儀式のように行い、彼らの信じる神々……アルグは宗教すら持っているのだ!……に捧げる。そして生きたまま人間をむさぼり食う。

 これが女だとさらに深いで、忌まわしい運命が待っている。

 森に入るときは三百人いた仲間も、すでに二百人を割っている。通常の戦では、三分の一もの友軍を失えばほぼ部隊として戦闘能力を失ったとみなされるものだが、あいにくと戦争と違っていまのリューンたちには逃げ場がない。

 薄暗い森のなかを、まっすぐに伸びる、ウォーザ神の用意したという「ダールの道」を果てもなく歩き続ける。いまもこうして歩いていると、ときおり実は自分はすでに死んでいて、ゼムナリアの死人の地獄に迷い混んでいるのではないか……そんな妄想めいた思いに駆られることもある。


「ちっ……」


 飢えがひどいと、胃のあたりがちくちくと痛くなってくる。その飢えを癒やすようにリューンは革袋につめた水を飲んだ。もともとの味なのか、あるいは革袋の味が移ったのか、水はひどく苦く感じられる。


「カッギル・ガッシャール!」


「アジュ・ゴロブゴイ!」


 あちこちから、人間の声帯が発するのとは微妙に異なる、忌まわしい言葉が聞こえてくる。知性種族であるアルグは、独自の言語すら有していた。

 ただ、部族毎にどうやらかなりの言語の差異があるらしいと宦官魔術師のヴィオスが言っていたが、そんなことはリューンにとってはどうでもいい話だった。


「わかるか? いまの言葉」


 リューンの問いに、ヴィオスがかぶりを振った。

 ヴィオスは茶褐色の巻き毛かがった髪に青い冴え冴えとした瞳を持つ、まるで中年女のような魔術師だった。青いローブをまとっていなければ、そこらの農家の女将さんと間違えられてもおかしくはない。とはいえ、その青い瞳の輝きが示す知性には、最近ではリューンも信頼を置き始めていた。

 軍事などには疎いとはいえ、ヴィオスは魔術師である。森の怪異や魔獣に関しての知識のほとんどはヴィオスからのものだった。さらにいえば、ヴィオスはアルグたちの言葉すら、幾つか知っていたのだ。


「残念ながら、アルグどもの叫びがこちらへの攻撃を開始する準備を行っている……くらいまでしかわかりません」


「へっ、それだけりわかりゃ十分って気もするけどな」


 リューンは、背中から大剣を引き抜いた。いままで何十匹もの魔獣を切り倒してきたので、すでにだいぶ刀身は損傷している。


「それともう一つ……ゴロブゴイという言葉が気になります。ゴロブゴイというのは、確かアルグの信じる神々の一柱で……蟻の神だったはず」


「蟻?」


 リューンが、すっと目を細めた。


「蟻なんてちっぽけなものを奴らは神として崇めているってのか? あいかわらず、わけのわからん連中で……」


「それは違いますよ」


 ヴィオスがぶるっと肩を震わせた。


「ゴロブゴイの力により……アルグの巫術者はちっぽけな蟻を、巨大化させることが出来るという伝承を呼んだことがあります。今までは、本当かどうか疑っていたのですが……あるいは」


 それを聞いて、リューンはにやりと笑った。

 後ろからは、兵士たちがあわてて剣を引き抜くが聞こえてくる。


「いや……その伝承は、どうやら間違っちゃいないようだな」


 リューンの鋭い視力は、昼なお暗いアスヴィンの森の底にひそむ異形たちの姿を捕らえていた。

 高さは、四エフテ(約一・二メートル)、全長は十エフテ(約三メートル)ほどはあるだろう。

 黒い外骨格は丸みを帯び、その動きは昆虫類独特の、どこか不自然なほどぎくしゃくとしたものだった。


「まったく……今度は巨大蟻かよ! 本当に素敵な森で、涙が出てくる!」


 その刹那、何匹もの巨大蟻が巨体に似つかわしくない敏捷さでリューンたちのもとに迫ってきた。


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