第二章 魔の森のなかで

1  アスヴィン

 昼だというのに、森の中は薄暗い。

 遙か天上から射し込んでくる陽光のほとんどは、奇怪にねじくれた形をした木々の枝葉に遮られ、地上に届くものはほとんどなかった。

 ときおり、そうした貴重な陽光が分厚い苔に覆われた樹木のたくましく盛り上がった根を、明るく輝かせている。

 アスヴィンの森。

 それが、この恐るべき大森林の名だった。

 古来より、魔獣たちのすまう魔境として、人々に恐れられている。この森のへりに住むものたちは、いつ森から得体の知れぬ化け物がわき出してくるのか、そういった恐怖と戦っていた。

 基本的に、この森は「人間の領域」では断じてない。

 通常と異なる、魔獣同士の複雑怪奇な食物連鎖と、荒々しい魔力に満ちた魔術界の歪みが、得体の知れぬ怪異を日常的に生みだしていく。どんな剛胆な者でもとても正気を保ってはいられない魔境……それこそが、アスヴィンの森なのだ。


「ははっ……はははははははは!」


 いまもどこからか、調子の外れた笑い声が聞こえてくる。おそらく、怪異や魔獣ではなく、脱落して道に迷った兵士の一人が狂気を司るホスにでも憑かれたのだろう。

 ぼんやりとそんなことを考えながら、リューンは森のなか、彼とレクセリアにだけ見える「ダールの道」を歩き続けていた。

 もう、森の中を何日、行軍しているのかもわからない。

 いや、そもそもこれは行軍といえるのか。

 リューンの金色の蓬髪は、すでに乱れきっていた。鉄片で補強した革鎧もあちこちが傷つき、また血の赤黒い痕がある。その傷も太刀傷などはほとんどなく、たいていがひっかき傷や噛み痕といったものだった。

 長身の、見事な筋肉でよろわれた男性美の塊のような男である。だが、さしものリューンも、いまはさながら手負いの獣といった有様だった。

 リューンなどはまだ、これからも戦えそうな精気をみなぎらせているだけましというものだ。彼の後に続く二百名ほどの男女は、みな傷つき、歩くだけでも精一杯といったありさまだった。


(しくじったな)


 もう何百回目かわからない後悔に、リューンはいらいらと髪をかきまぜた。


(畜生……アスヴィンを舐めていた! これじゃあ、一万の敵軍の壁をつっきったほうが、まだましだったかもしれねえ!)


 アスヴィンの森を突っ切る。

 そうすれば、リューンが首から鎖でかけているグラワリア王国の玉璽を狙い、また彼の首と命そのものを狙うグラワリア諸侯から逃れると踏んでいた。

 結果的には、それは間違っていない。

 「ほとんどのグラワリア諸侯」は、実際、この森に入ることを諦めた。おそらく、リューンたちリューン軍のものはみな、森で遭難するか、いずれ魔獣たちの群れに襲われて死に絶えるとふんだに違いない。

 そしてどうやら、彼らの算段のほうが正しいのではないか。リューンはそんな気分になっていた。

 およそ後悔などという単語からはほど遠い、あのリューンヴァイスが、である。

 いままで幾度も死線は乗り越えてきたつもりだった。命の危険など、それこそ数え切れないほどだ。たとえばダルフェイン候アルヴァドスとの、あの巨人のような貴族との戦いでも、リューンは一歩間違えれば死んでいたはずなのだ。

 だが、そんな人生最大の窮地と思われた場面も、アスヴィンの森を突破するという行為の前では、困難という名の食事の前菜程度の意味しか持たない。


「兄者……すまねえなあ」


 今日で何度目かもわからぬカグラーンの言葉に、リューンはいらいらしながら言った。


「だから……もう、仕方ねえものは仕方ねえだろう! あのときは、森のなかに入るだけでも必死だったんだ! いちいち糧食なんて準備している暇はなかった!」


「でも……」


 小柄な男が、心底、すまなそうな顔をしてリューンを見上げていた。

 黒髪に、蛙のようにぎょろりとした大きな目を持つ貧相な小男である。一言でいえば、醜く、さえない容貌をしている。

 どうやら父は違うらしいとはいえ、これがリューンの実の弟だと知ると、たいていの者は驚く。


「俺がもっとしっかりしてれば……雷鳴団のときからちゃんと糧食とかを調達するのは俺の役目だったんだ。それなのに……」


「だから、もういいって言っているだろうがよ!」


 思わずリューンは罵声を放った。

 そのとき、ぐうっと腹が減る音が鳴った。

 幸いにして、いまのところ、アスヴィンの森は水は豊富に存在している。レクセリアづきの宦官魔術師ヴィオスが毒分が含まれていないか調べたときも、十回に三回は飲んでも害のない水だった。これを多いとみるか、少ないとみるかは人それぞれだが、少なくともリューンは森のなかの水が毒水だけではなくてほっとしている。

 問題は食糧だった。

 人間は、水よりは飢えに対する耐性が高い。三日、水分が無補給の場合、命の危険があるものだが、三日飢えてもよほどのことがない限り、簡単に死にはしない。

 しかし、飢えはじわじわと体力をそぎとっていく。また、脳に栄養がいかないと判断力も鈍っていく。

 もしこれが、ただ森を突っ切るだけだというのなら、まだいい。だが、この森にはさまざまな魔獣が住まい、見慣れぬ人間を見かけると容赦なく攻撃を仕掛けてくるのだ。

 もう傭兵としてセルナーダ全土を駆けていたころの何十倍もの魔獣を、リューンはこの森で見ていた。

 魔獣は、魔術界のゆがみが強い「魔獣溜まり」と呼ばれる地域に集中して居住している。そのため、魔獣溜まりのなかでは魔獣が他の魔獣を喰らうという凄まじい生態系が成立している。

 魔術的な力を持つ獣、というのが魔獣の定義ではあるが、リューンからすれば魔獣とはすなわち「化け物」であるし、その認識は決して間違っていなかった。

 たとえば、魔獣の代表格ともいうべき、右手を骨のような長大な剣に変えて人体を切断する剣熊がいる。また、炎や電撃を操る火炎狼や雷撃狼が、通常の狼を率いておそいかかってくることもあった。さらには胴体の基幹部から三方向に熊の上半身が突き出た三面熊、背中についた大きな貝殻のような謎の器官から風を噴き出して空から襲ってくる笛吹狼などどう形容しても「怪物」としか言いようがない。

 噂ではほとんどいまはいなくなったはずの、伝説の竜の類もまだアスヴィンの深部には存在しているという。

 だが、なによりもリューンたち一行を悩ませていたのが、アルグだった。

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