9  民草 

 ナイアスの都は、通常は五万弱の人口とされている。

 セルナーダの都市としては、かなり大規模なものといっていい。

 基本的に、ナイアスは商業で栄えていた。アルヴェイス川沿いの交易と橋を使った南北り陸運とがこの都を富で潤してきたのだ。

 そうしたこともあり、旅籠や商人のための木賃宿などが多いのもナイアスの特徴だが、いまはそうした建物のなかには人が溢れていた。

 城外から、近在の農村にいた大量の人口が避難してきたためだ。とても建物に入りきれない者も多く、石畳の敷かれた路地の上で転がっている人々も少なくない。


「一体、これからどうなるんだ」


 多くの人々の考えていることを一言でまとめれば、そういうことになる。

 むろん、みながナイアス候の領民なのだ。この時代、「アルヴェイア国民である」といういわば国家意識は薄い。いくらグラワリアやネヴィオンとしょっちゅう戦っていると知っていても、それは知り合いが兵として採られたり、税が上がったりするだけの話で、戦場で直接、異国の民を見たこともない者のほうが多いのである。

 そのかわりに「ナイアス候の領民である」という人々の意識は、非常に高かった。

 だからこそ、いまのところ人々は一枚岩なっている。こんなときにこそ結束すべきだとナイアス候の領民たちはみなわかっている。

 だが、ナイアス候の領民でないものがそこに混じっていたら?

 誰が初めに広めたものかはわからない。だが、いつしか狭い城壁に押し込められた五万を越える人々の間で、一つの噂が流れ始めていた。


「城壁の外からきた連中のなかには、敵の間者がまぎれこんでいるって話だが」


「ああ、その話は俺も聞いた……あの『黒い雄牛亭』のグラヴェスっているだろ? あいつが言うには、セヴァスティスってネヴィオン人が、ずいぶんと村の連中にまぎれて間者をひきいれたとか」


「恐いよな」


「ああ、恐いな」


「しかしなんでこんなことになったのかな」


「おい、お前、まさかうちの殿様の文句を言う気か?」


「そんなことはないけど……だって相手は王軍だろ? おかげで俺たち反逆者らしいじゃないか」


「けっ王様なんてただの飾りだよ! それに王様っていったっていずれエルナス公が新しい王様になるらしいじゃないか」


「でもよ、エルナス公はゼムナリア信者って話……知ってるか?」


「ありえねえ!」


「そうだ、それこそあのセムロス伯あたりが流した噂だろう。そうやってゼルファナス卿の評価を落とすつもりだ」


「だいたいいままでうちの殿様がなんか間違いをしたことがあったか?」


「だよなあ……あの痣さえなけりゃまさに完璧な殿様なのに」


「へへっまったくだ、痣の殿様についていけば間違いはない」


 むろん領民たちには、悪意などかけらもない。彼らは心底、「痣の殿様」のことを愛してそう呼んでいるのだった。

 まさかそのナイアス候が、痣のことをどれだけ気にかけているは、彼らは知らない。


「とにかくみんなで一つにまとまらないとなあ」


 そのとき、一人の男がぽつりといった一言がこの戦の戦局を大きく変えることになるのだが、そのときはまだ誰もそんなことは気づいてはいない。


 籠城戦は続いた。

 だが、実際にはほとんど戦闘など行われていない。

 ナイアスの北の都の城壁を取り囲むようにして、何台もの投石機が組み立てられていた。三王国期の戦いで高度に発達した投石機の威力は、攻城戦でその真価を発揮するのだ。

 その日は、よく晴れた初夏の日だった。いま城壁の外にいけば王軍の六千もの軍勢が包囲を続けているとはとても思えないような、好天だった。

 その日、近在の農村から城内に避難してきたユーナスは、いつものように路地の隅で丸くなっていた。


「くそっ……くそくそっ」


 戦など、忌々しい。戦が自分から全てを奪い取ったのだ。

 まだ収穫前のネルドゥ麦は焼かれた。それもただのネルドゥ麦ではない。水に溶くとねっとりと生地をつくる、最上等のネルドゥ麦だ。「貴族のパン」と呼ばれるふっくらとした発酵させた白パンを焼くためのネルドゥ麦なのだ。ナイアス候の食卓に届く特別な麦をつくっているということで、ユーナスにはそれなりの誇りがあった。

 その自慢のネルドゥ麦はすでに焼かれている。

 いや、それはいい。そこまでは我慢できる。他の家財がすべて焼かれてもまだ我慢できる。

 だが、ユーナスの宝というべき家族と、はぐれてしまった。

 ナイアスの城壁は外からの避難民で混雑していた。そのときに、妻と二人の娘とはぐれてしまったのだ。

 迂闊だった。ちょっとした油断をしている間に妻子の姿は人々の波に呑まれていった。

 街をうろついて妻子の姿を探したが、どこにも妻も娘もいなかった。

 まさかとは思うが……城外に取り残されたのか。

 十分にありうる話だ。ありうる話だが……そこで、ユーナスの思考は止まる。

 「そこから先を考えてはならない」と本能が告げているのだ。

 危険すぎる。その先のことを考えたら自分は狂気を司るホスに憑かれるかもしれない。

 

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