3  敗北伯の思考 

(また、戦か)

 

ネルトゥスは戦場にうんざりし始めている。

 すぐる日の南部諸侯によるフィーオン野での戦い、さらにはグラワリア軍とのヴォルテミス渓谷の戦いで、ネルトゥスはともに敗軍に属していた。

 そのため、かつては「ハルメスの鮫」と恐れられたネルトゥスに対して、いささか、というかかなり不名誉な噂が周囲では囁かれている。


「ハルメス伯はかつての『ハルメスの鮫』にあらず。さながら『敗北伯』といったところか」


 そんな話が漏れ聞こえてくるのだ。

 所詮は噂であり、まともにとりあう必要はない。そうと理屈ではわかっていても、確かに二度も続けて敗軍にまわるというのは、正直にいって愉快な経験ではなかった。

 グラワリアにとらわれ、身代金を払って釈放されたと思ったら、今度は「王命」によりこのナイアス攻略戦を命じられたのである。そろそろ故郷のハルメス伯領に戻って妻と娘たちの顔を見たいのだが、戦乱の時代はネルトゥスにそうしたささやかな夢さえも許してはくれないのだった。


(それにしても……なぜ、国内を二分するような、このような戦をせねばならんのか)


 内心、ネルトゥスはこの戦に対し、忌々しさすら感じていた。

 鎖帷子に身を包み、青と白の陣羽織をまとったまま、ゆっくりと馬を進めていく。

 ナイアスの都の城壁は、かなり堅牢なものである。この都の戦略的価値は、武人であるネルトゥスにはよくわかっていた。


(なにしろナイアスといえば、王都メディルナスの目と鼻の先……とにかく、この都を落とさねば安心してこれより先に軍勢を進めることはできん……)


 あたりにはすでに焼き払われた麦畑が黒々とした無惨な姿を晒していた。どうやらナイアス勢はすでに冬蒔きのセルドラ麦を収穫したようだが、春まきのネルドゥ麦はまだ完全に実ってはいなかったはずだ。とはいえ、放置しておけば麦はそのまま育ち、「王軍」の糧食となってしまう。それくらいなら、焼き払ったほうがまし、という判断だった。

 軍事的にはなにもおかしなことはないが、農夫たちが汗水垂らして育てた麦が焼かれた痕を見るのはネルトゥスにはとっていささか胸が痛むものだ。

 前方には幾つもの天幕が並び、その上では諸侯の旗印が翻っている。

 いまは戦場とはいえ、不思議なほどの静寂が漂っていた。力押しで攻めるか、あるいは完全に相手の糧食が尽きるまで待つ、いわゆる兵糧責めを続けるか、まだ軍議でも決着がついていないのでとりあえず様子をみている、という状況なのだ。

 ナイアスの高さ三十エフテ(九メートル)におよぶ城壁は堅牢なつくりのものだ。ここしばらく、ナイアスの城壁は野盗たちの群れから都市の住民を守る以上の意味をもたなかったが、アルヴェイアの内情が安定になり始めてからナイアス候は城壁の補修を始めていた。そのため、いまでは完全に実戦に耐えられる堅固な城壁となっている。

 あちこちの円形の物見の塔の上で、兵士たちが周囲を見張っていた。そこから矢の届かぬだいたい一千エフテ(約三百メートル)ほどの距離をおいて、鎖帷子に身を包んだ騎士たちや革鎧の歩兵たち、さらには傭兵隊などがナイアスの都を取り囲んでいる。

 とはいえディーリンと国王シュタルティスの控える王軍の本陣は、さらに後ろにあった。臆病なシュタルティスはそもそもメディルナスを出ることも嫌っていたらしいが、ディーリンと愛人のシャルマニアに説得され、なかば強引な形で戦場に引きずり出されたらしい。シュタルティスの軍事能力など、実のところ誰も期待していない。問題は、国王が参陣しているかどうか、なのだ。

 王が親率した軍勢はすなわち王軍であり、これに反するものはみな例外なく「賊軍」となる。軍事的には無価値なシュタルティスも、政事的な意味では同じ重さの黄金よりも価値を持つのである。

 事実、シュタルティス自らナイアス攻城戦に参加すると知って、今回は王軍につこうと決めた貴族諸侯はかなり多い。現在、国王が自らの指揮権を持つ王国軍はほとんど壊滅状態にある。そのため、いまアルヴェイアで使える兵は諸侯の率いる兵と傭兵くらいのものだった。

 六千のうち、諸侯の軍勢は三千ほどだ。さらに王家……より正確にいえばセムロス伯が雇った……傭兵隊が五百。

 問題なのが、残り二千五百の兵士である。


(確かに、ナイアスを落とすのは重要だ……それは、わかる)


 ネルトゥスは馬を進めながら、左手な流れる大河の河面を眺めやった。


(このアルヴェイス河は、王国を東から西に貫流し、やがてアクラ海へと至るいわば王国最大の街道のようなもの……ナイアスを抑えられれば、アルヴェイス河の交通が止められてしまう)


 セルナーダの地にあって、物資の流通のかなりの部分は、水運により行われている。これはなにもアルヴェイアに限ったことではなかった。水上輸送と陸上輸送にかかる価格比は、状況にもより変化するがおよそ百対一とされている。つまり、同じ値段で水上輸送であれば百倍の品を運べるのだ。

 そのためアルヴェイス河は、いわば「水の街道」となっている。エルナス公の本拠地、アルヴェイス河口のエルナスと、王都メディルナスはともにアルヴェイス河で結ばれていた。この河を抑えたものが、今回の内戦の勝者となるのは少しでも知能を持つものが見れば明らかなのである。


(それにもう一つの問題は……この橋だ)


 ネルトゥスの視線の先には、河を突っ切るアーチを幾つも連ねたような橋脚を持つ高い石造りの橋があった。

 これこそが、名高い「ナイアスの橋」である。

 この橋が造られたのは、そもそも帝国期の頃であるという。それから幾度も補修や改造が施されたナイアスの存在は橋は、アルヴェイア全土に知られていた。そもそもナイアス候家の家紋からして、この橋を意匠に取り入れているのだ。いわばナイアスの橋とはこの都の象徴のようなものである。

 厳密にいえば、ナイアスの都は二つある。つまり、アルヴェイス河の北岸の都と、南岸の都である。それぞれが半円形の城壁で囲まれ、そしてこの二つの都をナイアスの大橋がつないでいる、ということになる。

 河に軍船を浮かべて一気につっこめればいいのだが、当然の事ながらナイアス側も馬鹿ではない。すでにアルヴェイス河には、河の船による水運を妨げるための頑丈な鎖が幾重にも張られている。下手に船を使えば鎖で通行を阻害されるどころか、船体が破壊されかねない。

 ナイアスの北と南、どちらの都を重点的に叩くのか、という議論もあったが、結局は北の都が選ばれた。北のほうが都の規模が大きいため、城壁も長い。そうなれば寡兵で都を守るナイアス側からは防御がしにくくなる。

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