第五部 アルヴェイアの嵐
第一章 ナイアス攻城戦
1 セムロス伯の懊悩
アルヴェイアの有力諸侯には個性的な面々が多く、そのなかではセムロス伯ディーリンは、一見すると「地味に」見える種類の人物である。
たとえばエルナス公ゼルファナスのようにこの世ならざる美しくを持っているわけでもなければ、またナイアス候ラファルのような特徴的な痣を持っているわけでもない。
世をすべて愉しみの道具としてしか捉えていないがごときネス伯ネスファーの剽軽さもなければ、ヴィンス候夫人ウフヴォルティアのように、下級騎士の娘からその美貌と策謀で成り上がったという特異な過去を持つわけでもないのだ。
生まれから言えば、ディーリンはセムロス伯家の長子として生まれた、典型的な貴種である。大柄で精力的な外貌を持ち、ふだんはにこやかな笑みをたたえていることから「温顔伯」の異名を持つ。なるほど目も耳も鼻も顔を形作る部品はすべて大きい異相ではあるが、見ようによっては豪農一家の長のように見えなくもない。
だが現にディーリンを見たものは、誰もそんな印象は抱かない。
誰もがディーリンの持つ、圧倒的なまでの「力」に圧倒され、呑み込まれ、気がつくとディーリンという者がいかに「巨大」な存在であるかに気づくのだ。
大きさというのはそれ自体、力である。
たとえばディーリンは肉体的にも大柄だが、巨人というほどではない。だが、彼の所有する……実際には国王から借り受けたという形になっているが実際にはセムロス伯領の誰もがディーリンこそが自らの主人だと思っている……セムロス伯領は、古代の豊饒の力が働いているのか農産物が豊かな実りをもたらしてくれる。
特筆するような産業はないが、農業生産性の際だった高さはこの時代、富そのものである。セムロス伯の富裕さは、誰もが知るところだった。
借財だらけの王国の財政から見れば、セムロス伯家の豊かさはほとんど異常とさえ思えるだろう。一説には世界の中心に立つ世界樹ともいわれる「セムロスの大樹」の旗印のもと、ディーリンはいままで富の力を行使することなく、その巨大な財力をふるうこともなく、ただただセムロス伯領内を豊かにすることに尽力していた。
セムロス伯領内で、ディーリンを悪く言う者は誰もいない。むろん悪口がないこともないが、それはむしろ親しみをこめて言われるたぐいのものだ。
「うちの殿様はけちだからなあ」
というのが、セムロス伯の収める領地で暮らす人々の、ディーリンへのせいぜいの悪口である。
領民からディーリンは愛されている。そしてディーリンも領民たちを我が子のように、否、我が子などよりも遙かに深く愛おしんでいた。ある意味では領主と領民の理想的な関係がそこにあるといっても過言ではない。
だが、だからといってディーリンが善良な男かといえば、それは明らかに違う。
領民にとっては、これ以上ない立派な「殿様」だったにしろ、さらに視点を広げ、王国の諸侯の一人としてディーリンを見た者は……誰もが口をそろえて言うのだ。
「この男だけは決して敵にまわしてはならない」と。
温顔伯、とわざわざ呼ばれるからにはそれなりの理由がある。
いつもにこやかな笑みをたたえている人間が、ひとたび怒ったときこそ、普段の温厚そうな外見との巨大な落差を感じ、人々は萎縮し、恐怖する。そしてそれこそが、ディーリンの狙いでもある。
「セムロス伯がひとたび怒れば大変なことになる」
というのもアルヴェイア王宮、青玉宮に出入りする者からすればまた常識なのだった。
とはいえ、いままではディーリンは積極的には青玉宮に伺候することもなく、むしろ地方の一権力者としての勢力を誇っていた。極力、グラワリアやネヴィオンとの戦にも関わり合いにならぬようにして己の力を温存していたのである。
「あるいは、『このとき』を待っていたのではないか」
ある貴族などはそんなことを考える。
「しかし最近のセムロス伯は……なんだか昔と人が変わられたようだ。あくまでも裏方……目立つことを嫌い、できれば穏当にことを運ぶ……ただし、一度、敵にまわったものは徹底してたたきつぶす……いや、相手が弱小諸侯なら良いが、今度の相手はいままでとは役者が違う。王位継承権を持つ、あのエルナス公ゼルファナスだぞ……」
すでにディーリンは息女シャルマニアを使い、国王シュタルティス二世を籠絡している。また青玉宮では派手に宴を開き、さらに積極的に王国官僚や貴族諸侯を取り込むとことで、その影響力を一気に伸張させている。
もともと、ディーリンがその気になればいつでも出来たことだ。だが、なにかをなすときはそれに伴う危険を伴うのが常である。あまりにもディーリンが王家に接近し、ほとんど王家の裏方、否、影の支配者のような存在になれば当然、敵をつくる。
より正確にいえば、ディーリンは自ら、敵をつくった。
エルナス公ゼルファナス、人々の人気も高い美しい貴公子を、こともあろうに死の女神ゼムナリアの信者として訴えたのである。
これはディーリンらしからぬ、危険な賭けといえた。
なにしろゼルファナスは、おそらくは惰弱な王シュタルティスなどより遙かに人々に人気がある。ゼルファナスが国王位についても歓呼の声を上げる者のほうが遙かに多いだろう。そして表だっては、なにもディーリンが好んでゼルファナスと敵対する理由はないのだ。
「やはりセムロス伯も五十をすぎ、そろそろセムロスの主ではなく『アルヴェイアの影の主』になるつもりなのか」
「そのためには確かにゼルファナス卿は邪魔者ではあるが……しかしそれにしても、いささか強引すぎるやり方というか……」
ディーリンの近辺にいる者たちでさえ、主がなにを考えているかわからない。
だが、ディーリンにしてみれば、これは当然の行動なのだった。危険なことには変わりないが、いわばやむにやまれぬ処置なのである。
むろん、人生の最後に王家の中央で権勢をふるうのも愉快だろう、という思いはある。だが、そんな権力欲はもともと豊かなセムロス伯家の長子に生まれついたディーリンには、実はさほどないのだった。むしろ面倒な仕事がふえるだけで、大した得にもならない。
とはいえ、これからのセムロス伯家とセムロスの領民のことを考えると……ディーリンとしてはこうした行動に出ざるを得なかった。
はたからみれば、「権力を得ようと焦っている」ように見えることをディーリンは十分に承知している。否、むしろ「そのように見せている」のだ。
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