12 森の悪夢
「古代の先住民は、万物に精霊が宿るという原始的な概念を持っていました。万物を五大元素の反応の結果と考えるネルサティア魔術に比べて、だいぶ遅れた思考ですな。まあ、ネルサティア魔術も現在のような形に系統だてられる前は、精霊とかいう怪しげなものを利用したこともあったようですが……その、下級の魔術存在……精霊の力を、あちこちに感じます……しかも、いやはや、ろくでもない力ばかりだ」
「恐ろしいものなのですか?」
その問いにヴィオスがうなずいた。
「口にすることもはばかられるような邪悪な思念、想念の残滓や呪詛のかけら……感じ取れるのはそうした負のものばかりです。この森には、古代の蛮族がつくった儀式用の呪術遺跡があるという話もよく聞きますから……ん?」
そのとき、レクセリアたちの右手の森から、なにかが強引に道をかき分けてくるような音が聞こえてきた。
「これは……なにか、来ます!」
ランサールの槍乙女たちが、レクセリアを包囲するようにして彼女の身を守る配置についた。
槍の穂先を闇の奥へとむけているが、五人いる護衛みんなが、緊張した顔をしている。
木の枝を引き裂くような、轟音がふいに轟いた。
どんな獣かはわからないが、とてつもない力を持っているのは確かなようだ。
「ぎゃああああああ!」
「出た! 魔獣だ! 魔獣だぞ!」
前方の隊列も、なにかの襲撃をうけたらしい。
ひどい悲鳴のようなものが聞こえてきた。
確かにアスヴィンの森に抜け道があるのは事実らしい。
だが、この道も森の中の外敵から身を守ってくれるほど便利なものではないようだ。
なにか、重々しい音がこちらにむかって接近してくる。
黒い巨大な影が近づいてくる。
ふいに、それは立ち上がると凄まじい咆吼をあげた。
びりびりと空気が振動する。
いままで聞いたこともないような、奇妙な声だ。
「まずい……私は、一度だけ、この化け物に出会ったことがあります!」
シェアが震える声で言った。
「これは……おそらく、剣熊です!」
途端にレクセリアの体にも凄まじい恐怖が走った。
戦場で人間と戦うのとはまるで異質な、もっと人間の根源的な本能のようなものを刺激する恐怖だ。
「剣熊……」
剣熊は、普段は大型の熊のような姿をしている。
だが、その体格も性格も灰色熊並みであり、さらには二本の後ろ足で立ち上がり、右手を瞬間的に魔力によって白い剣のように変えて獲物を切断するのだ。
「猛き女神よ、嵐の王の娘たる女神よ……汝の怒りのいかづちを! いまこそかの汚らわしき獣にあたえたまえ!」
ランサールの槍乙女が女神への祈りを口にした途端、法力が顕現して一条の紫色の雷光が恐るべき速度で森のなかを駆けめぐった。
ばん、という破裂音のようなものは、稲妻が生物の体を直撃するときのものだ。
その紫色の光のなかに、一瞬、不吉な黒い影が浮かび上がった。
やはり、さきほどの槍乙女の言葉は正しかったようだ。
それは、どう見ても立ち上がった巨大な熊そのものだった。
身長は軽く十エフテ(約三メートル)をこえている。
それだけで、もう腰をぬかしてしまいそうだというのに、相手の右手は、身長と同じほどの長さをもつ剣のような形状になっていた。
怒声のような声とともに、こちらに駆け寄ってきた剣熊が剣状の右手を一閃させる。
恐怖のあまり、レクセリアは身じろぎすることも出来なかった。
足が下の大地に根を張ってしまったかのようだ。
「殿下! 危ない!」
そのとき、さきほどのシェアという槍乙女に体をはじき飛ばされた。
続いて、肉と骨がなにかによって切断されていく忌まわしい物音が鳴り響き、すさまじい悲鳴が聞こえた。
「ぎゃああああああああああああああ!」
レクセリアの全身に、ひどく熱い液体がふりかかった。
さらには、なにかぬるぬるとしたものが首のあたりでからみついている。
ちょうど銀の月の光が射し込んでいる場所にいたため、レクセリアはそれがなんなのか、すぐに悟った。
まるでなにかの冗談のように、顔を恐怖と苦痛にゆがめたままの、シェアの上半身が、レクセリアの隣に転がっていた。
首にからみついているのは、どうやらシェアの内臓の一部……腸らしいと知って、レクセリアは悲鳴をあげた。
「いやあああああああああああ!」
だが、残されたランサールの槍乙女たちは、次々に法力を唱えて剣熊に稲妻を浴びせながら、勇敢にも槍をもって飛びかかっていった。
すぐにそのうちの一人の首が、剣熊の剣のようになった右手で跳ねとばされる。
その首は、ころころとレクセリアの隣に転がり、止まった。
(これが……)
吐き気と恐怖に体じゅうが震えている。稲妻が幾つもの闇のなかで飛び交い、剣熊にむかっていく。
(これがアスヴィンの森……これが、魔獣と怪異のひそむ……セルナーダ最大にして最悪の魔境!)
だが、自分たちは文字通り、まだこの森に足を踏み入れたばかりなのだ。 なるほど、ダールの抜け道がある以上、途中で迷うということはないかもしれない。
しかし、果たして何人がこの森を抜けてアルヴェイアまでたどり着けるのだろうか?
いや、とレクセリアは思った。
何人かアルヴェイア側まで生き残ることができたら、そちらのほうがむしろ奇蹟なのかもしれない。
この森はあまりにも危険すぎる。
この森はあまりにもおぞましい多くの魔獣をそのうちに潜ませている。
(あるいは……この道を選んだのは失敗だったかもしれない。私はアスヴィンの森を、甘く見ていたのかもしれない)
あちこちから、さらなる魔獣たちが集まってくるとおぼしき物音が聞こえてくる。
だが、まだアスヴィンの森の悪夢は始まったばかりなのだ。
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