2 道化にあらず
大量の汗をかいているせいで、顔の模様はますます複雑怪奇なものとなっていく。
「ひええ!」
リューンがときおり悲鳴をあげたりして逃げまどうそのさまは、もはや武人としての誇りもなにもあったものではなかった。
(むごい……これでは、なぶりものだ)
レクセリアはあまりのことに、リューンが無様に逃げ回るさまを正視することもつらくなってきた。
しかし、他のグラワリア貴族たちにとってはこれはこれで面白い見せ物らしい。
まるで飢えた獅子が兎を追いかけるさまを愉しんでいるかのようだ。
「陛下……ガイナス陛下」
レクセリアは、再度、ガイナスにむかって言った。
「私からのお願いです。どうかあのリューンなるもの、せめて命ばかりは……」
「くどいぞ、殿下」
ガイナスが言った。
「さきほども言ったはずだがな。なぜ、余が『勝っているほう』をわざわざ助けてやらねばならぬのだ、と」
勝っている。
いま、リューンのほうが勝っているとガイナスは言うのか。
誰がどうみても、勝負がついたことは明らかだ。
いまのリューンは反撃するための武器といえば小さな短剣だけである。
どう見ても……。
「殿下」
そのとき、レクセリアの傍らに控える、青ローブに身を包んだ男が言った。
「殿下……よく、ご覧ください。ガイナス陛下のおっしゃったことは、間違いではございませんぞ」
厳密には、彼のことを「男」と呼ぶべきかどうかは難しいところだ。
なにしろ彼は人工的に男性機能を奪われた、いわゆる宦官だったのだから。
名は、ヴィオスという。
彼はレクセリアの教育係であり、護衛でもあり、またそば仕えの魔術師でもあった。
さほど高位のものとはともかくとして、ヴィオスはネルサティア魔術でも、情報などを操作する術を多少は使える、いわゆる水魔術師だったのである。
黒髪のふさふさした、一見すると農家のおかみさんのようにも見える容姿の持ち主ではあったが、その眼光は鋭い。
ヴィオスの知識量たるやなまなかなものではなく、また彼は同時に高い知性にも恵まれているのだ。
(ヴィオスもガイナス王と同じことを……でも、一体、なぜ……)
レクセリアは混乱していた。
おかしい。
どう見てもリューンは危険な状況に陥っているはずだ。
それなのに……。
「らしくないな」
ガイナス王が、再び金杯に満たされた葡萄酒に口をつけた。
「まったくもって、レクセリア姫らしくない。いくら戦士ではないとはいえ……いや、なるほど、『そういうこと』か」
ふいに、ガイナスがなにかに気づいたかのようにくすくすと笑った。
「これは愉快だ。レクセリア姫も一人の女、というわけか。なるほど、あのものに……」
ガイナスはなにを言っているのだ?
とにかく、このままではリューンがやられてしまう。
リューンヴァイスが……。
そこでレクセリアは、はっとなった。
(私は……なぜ、こんなにリューンの身を案じているのだ?)
馬鹿馬鹿しい。
相手はとるにたらぬ傭兵だ。
そんな男の身を案じる必要がなぜあるのだ?
わからない。
それなのに、あのリューンが死ぬかもしれないと思うだけで、言いようのない恐怖と哀しみに胸ぐらを掴まれるような気分になるのである。
(おかしい……私はなにか変だ……私はなにかを見落としているのか? ガイナス王とヴィオスには見えているものがなぜ、私には……)
冷静になれ、と自分にむかって言い聞かせる。
落ち着いて、リューンを見るのだ。
そうなれば、またなにか別のものが見えてくるはずなのだ。
ガイナスとヴィオスが気づいているなにかに。
白い砂にまみれたリューンの顔を改めて凝視する。
青と灰色の、自分と同じ左右で色の違う瞳は、ぎらぎらと輝いている。
必死になって逃げ回っているように見えるがいまだリューンは戦意を失っていないのだ。
(あの状況で……まだ、まだ勝ち目があると信じているのか? それとも……)
ほとんどのグラワリア貴族たちはもはやアルヴァドスの勝ちと見て、リューンをあざ笑っている。
だが、ガイナス、ヴィオスはなみの眼力の持ち主ではない。
(あっ)
そのときレクセリアにもようやく、見えた。
リューンがなにを目論んでいるのか。
それはあまりにも鮮やかなものとしてレクセリアにははっきりとわかった。
むしろ、いままでなぜこんな簡単なことに気づかなかったのか、そちらのほうが不思議なほどだ。
なるほど、一見すればリューンにはもう後がないように見える。
だが、それは間違いだ。
ガイナスの言う通り、「さきほどからリューンのほうが明らかに勝っている」のだ。
確かにアルヴァドスは一方的にリューンを追い回し、剣を打ち下ろしているようにみえるが、その速度はますます落ちている。
それだけではない。
重い鎖帷子をまとっていることで相当に消耗しているのだろう。
アルヴァドスの足さばきはひどく鈍重なものとなっていた。
巨大な剣と重い鎖帷子によって、アルヴァドスはどんどん体力を消費していく。
むろんリューンもあれだけ激しく動いているのだから疲れていないわけではないが、よくみればその口元には、獰猛な笑みさえ浮かんでいる。
「ええい! 死ねえ!」
アルヴァドスがのろのろと斬撃を放ったその瞬間、リューンヴァイスは恐るべき敏捷さで剣の下をかいくぐると、一気にアルヴァドスの懐に入った。
その瞬間、なにか白い粉のようなものがゼヒューイナス候の兜のあたりで生じていた。
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