9  ナイアス候の思考 

 ナイアスの都は、アルヴェイア王国の戦略上の要衝に位置している。

 地理的には、アルヴェイアのほぼ中心にあるといっていい。

 だがなんといっても重要なのは、ナイアスの都にアルヴェイス河の南北にまたぐ巨大な橋が架かっているという点にある。

 この時代、アルヴェイス河には三本しか橋はかかっていなかった。

 東の王都メディルナス、さらにははるか西、河口近くのエルナスの都のすこし東にかかる橋と、ナイアスにあるものの三つである。

 ヴィンスやレクンミナスといったアルヴェイス中流域の都市には、一応は渡し場は存在しているが橋はないのだ。

 そのためナイアスの都を抑えることは、エルナス公派、そしてセムロス公派の双方にとって重要な意味を持つ。

 現在は、エルナス公派がこのナイアスの都を抑えていた。

 他でもない、ナイアス候ラファルはかつてからエルナス公派として知られ、かつての「六卿の時代」でも、常にエルナス公側についていた。

 しかしながら、なぜナイアス候がエルナス公ゼルファナスの側にいつもつくのか、その理由を知るものはほとんどいない。

 ある者は、ナイアス候は候領の東が直接メディルナス公爵領、つまりは実質上の王領に面しているので、王家に昔から対抗心をもっていたのだという。

 実際、王家は王都の近隣に領地をもつこの大貴族の存在を重視し、代々に渡り王家の姫を降嫁させてはナイアス侯爵を王家の庇護者にしようとしてきた。

 歴代のナイアス候は、そのため王家に友好的なものが多かった。

 なにしろ母方をたどれば、たいていは王家の姫にゆきつくのである。

 王家の姻戚政策は見事に成功していたのだ。

 現当主、ラファルが当主となるまでは。

 そもそもラファルには謎が多い。

 いや、より厳密にいえば「どこか謎めいてみえる」というべきか。

 まず彼はなぜか異常に、自分の顔の痣にこだわっていた。

 ナイアス候の右目の近くには、生まれつきの赤い痣があるのだ。

 この痣の存在を、ナイアス候はひどく気にしているようだった。

 そのため艶やかな波打つ黒髪で、顔の右半分を覆っている。

 武人としても優れ、内政能力も高く、またかなりの美男でもあるのだが、彼があまりにも自分の痣を気にしすぎるため、かえって周囲がおもしろがり、「ナイアス候の痣の秘密」に関する無責任な噂が、宮廷から領民の間までさまざまに流れている。

 むろん、ほとんどの者に悪意はない。

 単に話として面白いからである。

 だが、その小さな痣がどれだけナイアス候ラファルという大貴族の人格形成に影響を与え、そして現在のアルヴェイア政局にまで関わっていると知れば、おそらく多くの者は驚くだろう。

 それほどまでに、ラファルにとってこの痣の存在はおぞましいものだった。


(まったく……醜い痣です! お前の本当の父親の血を、こんなところで受け継ぐなどとは、お前は侯爵家の恥です!)


 痣を意識するたびに、ラファルの心のなかでそんな母親の声が繰り返される。

 すでに母はこの世にいない。

 母は死んでいるのだ。

 そうはわかっていても、ラファルはいつも夢で母に責められる。


(そうだ、俺は醜いのだ……この醜い痣が俺の本質を表している)


 周囲から無数の人々の好奇の視線を浴びながら、ラファルは緊張に顔をしかめていた。

 ナイアスの都の住民は、概ね領主に対して好意的である。

 ラファルの統治能力の高さにより、領内の治安はアルヴェイアではかなり良い方だ。

 河川交通と南北への物資流通によってナイアスは栄えている。

 さらに所領も比較的豊かで、農産物も街にはあふれかえっている。

 もともと王都メディルナスと近いために、かえって人々はメディルナスの都や王家に対して、敵愾心に近いものを抱くようになっていた。

 より正確にいえば「競争意識」といったほうが正しいだろうが、王都に比べればナイアスの都のほうが上だ、というのがナイアスの領民たちの共通認識である。


「侯爵閣下だ」


「閣下が、こられた」


 何人もの武装した騎士に守られ、馬上でゆられているナイアス候ラファルを、ごみごみとした路地のあちこちから、あるいは鍛冶屋や樽職人の工場、酒場といった建物のなかから、無数の庶民の視線が射抜いている。

 その視線こそが、ラファルには恐ろしい。

 ラファルにとって街を歩いて人目にさらされることは、一種の拷問に近い。

 彼はいつも人々の目を避けるようして生きてきたが、いよいよ本格的に戦が近づいてきたいまのような状況では、領民に顔をみせ、彼らを安堵させる必要がある。

 これは領主の義務であると理屈ではわかっていても、馬上を好奇心一杯の目で見つめる領民たちの視線が、ひたすらに恐ろしくてならなかった。


(俺は、本当にナイアス候の資格があるのだろうか)


 そんな恐怖が常にラファルのなかにはある。

 父である先代当主には、むろんこんな痣はなかった。

 王家の姫であり、先代国王の妹である母にもこんな痣はなかった。

 ただ、母が嫁ぐ前に親しくしていた吟遊詩人に、こんな痣があったのだという。

 権力者の周囲にはありがちな醜聞である。

 あるいはラファルどのの真の父親は、あの吟遊詩人ではないのか?

 宮廷雀たちが戯れにそう噂した時期があった。

 所詮は噂だ。

 気にすることはない。

 そうは思ったものの、ナイアス候にとって、その恐怖は常につきまとっていた。


(俺はただの吟遊詩人の子で、ナイアス侯爵になる資格などないのではないか?)


 なにより母が、親子で二人きりになるとよく言っていたのだ。


(お前のその痣は、醜い! まるでお前の真の父のように! よいですか、お前は本当は賎しい吟遊詩人の子なのですよ!)


 いまにして思えば、それは嘘、あるいは母の妄想だとほぼ断定できる。

 実際、自分の出生が気になった彼は、母が自分を妊娠したときにはすでに彼女がナイアス候家の城に住んでおり、メディルナスにいた吟遊詩人とは離れていたと知っていた。

 母の言っていたことは、一種の妄想に近い。

 だがそれでも母の言葉は、幼いラファルの心を傷つけたのだった。

 皆が自分の痣を笑っているような気がした。

 いつも痣にまつわる出生の秘密をみんなで噂しているような気がした。

 だから髪で顔を隠したが、そうするといっそう皆は痣に関する話をするのだった。

 誰もがそうだ。

 自分の臣下の騎士たちでさえ、あるいは領民でさえ。

 痣。痣。痣。痣。

 耳をすませてば、あちこちからいまもそんな声が聞こえてくる。


(見ろ、殿様のあの痣……あれで隠しているつもりかね)


(ひどい痣だ……汚い痣だ……)


(やだ……侯爵様、なんて醜い痣を……)


(違うよ、あれは侯爵なんかじゃない。本当は汚い痣を持つ吟遊詩人の息子なんだ……)


 痣について人々が噂する声が、いまも聞こえてくる。

 気にしすぎだ。

 幻聴のようなものだ。

 理屈ではわかっている。

 だが、いつまでも無数の声はラファルを責め立ててくるのだ。

 見ろ。ナイアスの民はだれもが、どこか不安げな顔をしているではないか。

 あれは、侯爵と呼ばれる資格のないものが候領を統治しているせいではないか?

 むろんそれは、ラファルの気にしすぎというものだった。

 あるいは癇癖の強い、神経質だった母の血のそうした部分を、ラファルは受け継いでいるのかもしれない。

 そもそもアルヴェイア王家の血は度重なる近親婚、兄妹婚によりあまりにも濃くなりすぎている。

 たとえばいまの第四王女ファルマイアなどは、知恵が遅れている。

 そうした血が、ラファルのなかにも流れているのだ。


(お前の痣は……)


 の母を殺している。

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