8 リゼルシア
「ほほう」
黒いドレスをまとった一人の少女が、少年の手をかいくぐるようにして部屋のなかに入ってきた。
年の頃は十二、三といったところか。ゼルファナスによく似た、つまりは驚くような美少女である。
だがゼルファナスとは違い、その髪の色は闇のように黒かった。
艶やかな黒髪を、腰に届くまでに垂らしている。
肌の色は病的なまでに白く、まるで死者の骨を洗ったかのようだ。
さらにいえば、眼球が白く濁っているため、まるでゼルファナスとは瞳と髪の色が逆転しているように見えた。
少女の瞳は一見すると、銀色に光っているようにも思えたのだ。
だが、これだけ瞳が曇っていればものが見えるはずがない。
「フィニス!」
珍しく、ゼルファナスがうろたえたように叫んだ。
「一体なぜ姉……いや、リゼルを部屋に入れたのだ!」
姉、とたしかいま、ゼルファナスは言わなかったか?
まさか、いまのはリゼルシア本人だとでもいうのだろうか?
そんな馬鹿な話があるわけがない。
リゼルシアはとっくの昔に死んでいるのだ……。
「ゼルファナス! なんと失礼な。私の言うことが聞けぬとは!」
リゼルと呼ばれた少女は、まるで弟を叱る姉のように叫んだ。
一瞬、ゼルファナスの顔がひきつった。
「リゼル……私を困らせないでくれ。いま、私は……」
リゼルと呼ばれた少女はミトゥーリアのほうを見ると、にやりと笑った。
「おや、これは珍しい客人ではないか! ミトゥーリア! ずいぶんと胸が大きくなったなあ! 昔は私より胸が小さくて泣いていたというのになんと立派な!」
ミトゥーリアは、言いようのない恐怖と嫌悪感を感じた。
リゼルという少女は『まるで死んだはずのリゼルシアがそのまま蘇って老化するのをやめた』ようにも見えたのである。
「リゼル! 少しは私の立場というものを考えてくれ」
そのまま、ゼルファナスはリゼルにむかってなにやら耳打ちした。「まだ早い」という言葉だけは確かに聞こえたように思える。
「ふむ……まあ、よいであろう」
なにか勝手に納得したように、リゼルは再びにっと笑った。
「いやこれは失礼した。実は幼い頃の知己に貴女に名前も姿もそっくり同じ娘がいたのでな! 私としたことが……」
「こ、このかたは」
ミトゥーリアの問いに、ゼルファナスが彼としては非常に珍しいことに、わずかに唇のあたりを緊張にひきつらせていた。
「失礼しました。この者は、かつてはこの城で働く侍女だったのですが、アンダルーン熱にやられてこのように……」
それを聞いて、ようやくミトゥーリアは納得した。
完全にではなかったが。
アンダルーン熱はひどい高熱を出す病で、運が悪いと失明し、さらに頭もおかしくなることがあるという。
「まあ……それは、おかわいそうに」
あるいは自分の死んだ姉に似た少女に、なにか特別な感情を抱いているのかもしれない、とミトゥーリアは思った。
だが、それにしてもあたりに急にたちこめてきたこの妙な匂いはなんだろうか。
ごくかすかとはいえ、魚の腐ったような匂いと香の匂いが混じり合っている。
「ところでゼルファナス! いつになれば『狩り』に行くのだ!」
リゼルが不満げに頬をふくらませた。
さしものエルナス公ゼルファナスも、この少女の前では形無しといった様子だ。
「いや、その、それは……いまは狩りもなかなか難しいので……戦が始まれば、またいろいろと……」
どうにも二人の立場と、会話の意味が理解できない。
一応、ゼルファナスは公爵という立場のせいか、リゼルにむかって自分のほうが格上といった態度をとっている。
だが実際に二人をみれば、リゼルのほうがゼルファナスより上位の存在だということは明らかだった。
まるで、「本当にリゼルが蘇った」かのようだ。
子供の頃からリゼルはやんちゃで、お転婆な少女だった。
ただリゼルとゼルファナスの姉弟は子供にしてもいささか残酷なところがあり、よく猫をいじめていたりしていたものだ。
「とにかくいまは……ミトゥーリア殿下といろいろと……そう……ですから……」
ゼルファナスの狼狽ぶりを見ているうちに、ふとミトゥーリアはおかしくなった。
きっとあの心優しい……とミトゥーリアはいまでは思っている……ゼルファナスは、死なれた姉にそっくりの少女を、放っておけなかったのだろう。
だからあるいは、自らのもとに庇護しているのかもしれない。
アンダルーン熱のせいで視力を失い、さらには頭まで変になってしまった少女が城の外に出されれば、なまじ美形なだけに、かえってむごい運命が待ち受けているはずだ。
だからこそゼルファナスは、彼女のわがままにつきあってやりながらも自らの庇護のもとにおいている。
あるいはやはり、このような「優しさ」を持つゼルファナスは未来の国王にふさわしいのかもしれない。
なんとかそうミトゥーリアは思いこもうとした。
もう一つの、ある馬鹿馬鹿しい可能性を脳裏で必死で打ち消すために。
実際、リゼルと呼ばれた少女はリゼルシアにあまりにも似通っていた。
似通いすぎていた。
さらにいえば彼女は、こちらを見て昔の話までしてきたのだ。
ミトゥーリアが胸の小ささで悩んでいた頃の話を知っているのは、リゼルシアだけのはずなのだ。
すぐに胸は大きくなったので、そんな悩みは他の誰にも打ち明けたことはなかったのである。
つまり、いま眼前にいる少女は……あるいは、死の世界より蘇った死体なのではないだろうか?
死の女神ゼムナリアの僧侶の使う秘術のなかには、生前とそっくりに死者を動死体として蘇らせる秘術があると聞いたことがある。
あるいは、エルナス公が本当にゼムナリアの信者だとしたら?
ありえない。
そんな馬鹿なことはありえないとはわかっていても、さきほどから鼻をつく奇妙な腐臭のようなものは、どこか墓地で死者が朽ち行く匂いにも似て思えてならない。
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