5 ゼルファナスの食卓
エルナスは、アルヴェイス河河口に位置する古くから栄えた都である。
そもそも、現在のセルナーダの支配者階級であるネルサティア人が最初に上陸したのも、この近辺とされていた。
古来よりエルナスはセルナーダ文化の中心地、またアクラ海交易を行う際の西の玄関口として賑わってきた。
いまでも、エルナスの港には北方のシャラーン、メーベナンといった異邦からの船が頻々と出入りしている。
この海からの富は、そのままエルナス公爵家の莫大な財のもととなっていた。
さらにはエルナス公領は土地も広く、また豊かで、ある意味ではアルヴェイアのなかでの小独立国といってもいいほどだ。
さらにエルナス公家は親王家であり、王家との結びつきも強い。
エルナス公家からアルヴェイア王を出したこともあり、エルナスの人々にしてみれば王都メディルナスのほうが田舎者の集まりと思っている。
とはいえ先代当主の頃は、エルナスも多難の次代を迎えていた。
大量の傭兵流れの野盗などが公領を跋扈し、治安は乱れきっていたのだ。
それを改めたのが、現在のエルナス公爵家当主ゼルファナスである。
ゼルファナスは領内に独自の法を敷き、犯罪に関しては厳格な処罰を行った。
わずかな金品を盗んでも、即、死罪というおそろしく苛烈なものである。
だが、これが功を奏し、現在ではエルナスは過日の繁栄を取り戻している。
(本当にここは良いところ……)
海からのさわやかな風が、窓から入ってくる。
陽光の質もメディルナスあたりとは違い、世界そのものが輝いて見えるのは気のせいだろうか。
さらに窓の外には、青い夢のようなアクラ海が広がっている。
何隻もの異国の船が入港を待っているその姿は、現在の公都エルナスの豊かさを示すものでもあった。
(メディルナスより、こちらのほうがよほど王都にふさわしいかもしれない。帝国期には、メディルナスとエルナスで互いに遷都を繰り返したというけど、その気持ちもわかるわ……)
王妹にして国王シュタルティスの正妃である、ミトゥーリアはそんなことを考えながら窓から外を見つめていた。
長いわずかに波打った黒髪と、黒い瞳の持ち主である。
少し顔にはやつれがみえるが、それでも十分に美しく、気品に満ちた姿をしていた。
腹部が脹らみはじめているのは肥満ではなく、彼女が新たな命を授かった証拠である。
ミトゥーリアのなかに宿った子供は、ただの赤子とは違う。
ソラリス神への神託により、すでに子供が男子だということは判明していた。
彼の父は言うまでもなくシュタルティスである。
つまり、この子は生まれれば王位継承権を有することになる。
もっともそのおかげで、ミトゥーリアはメディルナスを脱出することになったのだった。
(もし、今頃メディルナスにいれば私も、この子もどうなっていたか……)
そう考えると、ミトゥーリアの背筋に冷たいものが走った。
現在、メディルナスの青玉宮を支配しているのは、国王シュタルティスではない。
国王はあくまで飾りであり、実質的に王宮を掌握しているのはセムロス伯ディーリンの一派である。
(もしあのままでいたら……)
ディーリンは、娘のシャルマニアをシュタルティスの愛人にさせていた。
すでにシュタルティス当人の寵愛もシャルマニアに移っていたと、ミトゥーリアは思っている。
そんなところでミトゥーリアの妊娠が発覚すれば、ディーリンによって恐ろしい目に遭わされていたかもしれない。
良くて軟禁、あるいは強引に流産させられるということもありえた。
なにしろディーリンは、娘のシャルマニアに国王の子を孕んで欲しかったはずである。
そしてシャルマニアを国母とし、外戚としてアルヴェイア王国を支配するのがおそらくディーリンの夢なのだろう、とミトゥーリアは思っていた。
彼女は決して愚かではない。
さらには宮廷人であり、世間のことは知らずとも王宮でどのようにすれば生き残れるか、いつもそれを考えて生きていた。
この時代のアルヴェイア王家の人間は、貴族諸侯に利用されるだけの存在であり実権などほとんど存在しない。
(陛下は寂しい思いをしているかもしれないけど……それでちょうど良いのだわ。陛下はわたくしがいるというのに、あんなシャルマニアなんて軽薄な女を選んだのですから)
と考えるあたり、ミトゥーリアもやはり女である。
「いかがなされました?」
卓の向こうから、涼やかな声が聞こえてきた。
「ミトゥーリア殿下……あるいは、この料理はお口にはあいませんか?」
「いえ」
ミトゥーリアはゆっくりとかぶりを振った。
「とてもおいしゅうございますわ。ただ、少し……その、考え事を」
「無理もありません」
卓の向こうの若者、すなわちこの城の当主であり、広大なエルナス公領の主であるエルナス公ゼルファナスは、静かにため息をついた。
(本当に……従兄弟殿は、夢のように美しい……)
ミトゥーリアとゼルファナスは、母方でみれば従兄弟にあたる。
さらにいえば父系でいっても血が繋がってるので、ゼルファナスは王位継承権も所有している。
(陛下よりも従兄弟殿のほうが、よほど国王にふさわしいのかもしれない。これほど美しいおかたで、しかも完璧な貴族……)
事実、ミトゥーリアでさえ陶然とさせられるほどに、ゼルファナスはこの世ならぬ美貌の持ち主だった。
小さな、完璧な彫塑のように整った顔はどこか少女のそれを思わせる。
綺麗な桃色の唇はまるで鮮やかな珊瑚のようだ。
白に近い白銀の、あるいは純銀をとかして糸にしたのではないかと思われるような柔らかでまっすぐな髪を肩にあたりまで垂らしている。
明るい髪を持つ者はたいてい瞳の色も明るいものだが、深い闇のような、漆黒の双眸が全体の調和をわずかに崩すことで、かえってその美は際だって見えた。
いまでもミトゥーリアはゼルファナスの黒い闇のような瞳に見つめられると、心臓の鼓動が早くなるのを感じるほどだ。
彼女は緊張をほぐすため、水で割った白葡萄酒を飲んだ。
あまり強い酒は母胎によくないため薄めているのである。
「私に、なにか?」
ゼルファナスが微笑するのを見て、ミトゥーリアもつい苦笑してしまった。
「いえ、いつ見ても閣下はお美しくていらっしゃると……」
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