13  死兵

 心臓の鼓動がやけに大きく感じられる。

 世界からは、音が消えたように思えた。

 頭が痛い。

 恐怖のため、血液がもの凄い速度で流れていくのがわかる。

 怖い。

 逃げ出したい。

 だが、もし決闘場から逃げようとすれば、外で待ち受けている騎士たちに殺されるだろう。

 いや、そんなことはないとほんの刹那の間に判断する。

 アルヴァドス相手にはとうてい、勝ち目はない。

 だとすれば、外にいる騎士や兵士たちを殺してこの場から脱出したほうがよほどましなのではないか?

 追いつめられた獣のように、リューンは素早くあたりを見渡した。

 幾つもの兵士たちの槍の穂が、まばゆい太陽の光をうけて不吉に輝いている。

 もし紅蓮宮の構造を知悉していれば脱出はあるいは不可能かもしれないが、やはり無理だ。

 外には逃げ場はない。

 かといって、アルヴァドスには勝ち目はない。

 となれば答えは、冷酷な一つきりしかない。


(ああ、そうか)


 さきほどまでの恐怖が嘘のように、すっと消えていった。


(ここで……俺は死ぬんだ。俺の運命は、おそらくここで行き止まりなんだ)


 宿命の女神ファルミーナの書いた宿命の書では、リューンヴァイスはアルヴァドスと戦って死ぬ、とでも書かれているのだろう。

 いままで幾度となく戦場を渡り歩き、それなりに死を覚悟していたつもりではあった。

 だが、アルヴァドスという怪物を目の当たりにして、それがいかにも甘いものであったかを思い知らされた。

 死。

 それはあるゆる生物が決して逃れられぬ定めである。

 どのような生き物であれ、死から逃れることはできない。

 魔術師などは寿命を延ばす秘法を知っている者もいるというが、それでもやはり死ぬことには変わりがない。

 神話伝承の類で神々に呪われて不死を得た者……たとえばネルサティアの放浪王オルセディス……の話などは知っているが、もしそれが事実としてもそうした不死者さえ世界が滅びる日にはおそらく死ぬのだろう。

 やはり自分は、今日、死ぬ。

 傭兵にとっては死に近づくことは、すなわち生を実感することでもある。


(生きたな。俺は、生きた)


 戦った。

 女を抱いた。

 酒をくらった。

 仲間にも恵まれた。

 戦場で泥水をすするようなこともあったが、仮にもグラワリア王位をかけて戦うなどという経験をするとは、並みの傭兵には出来ないだろう。


(そうだ……俺は、十分に生きた)


 そう思い極めると、未知の感覚が冷水のように体を浸していくのがわかる。

 決してそれは不快ではない。

 むしろ気分が涼やかになるような気がする。

 死を本当に覚悟した者は、このような境地になるのか。

 世界がまばゆく見えた。

 この世界で俺は生きた。

 十二分に生きた。

 だが、このまま一矢も報いずにアルヴァドスに切り刻まれて殺されるなど、冗談ではない。

 なるほど、相手は鉄壁だ。

 怪物だ。

 ならば、せめて一太刀、浴びせかけてやるか。

 死の前の最後の戦、愉しまずにどうするというのか。

 らんらんと、リューンの目が輝きを取り戻し始めた。

 口元に、悪童のような、にいっという笑みが浮かぶ。

 死は覚悟した。

 ならば一太刀……そしてあわよくば、死をも超越して……勝つ!


「うらあああああああああああああああ!」


 なにかを吹っ切ったように、リューンは真っ正面から斬撃を放った。

 傍目から見れば、それは無謀な攻撃そのものに見えたことだろう。

 実際、リューンは計算してその一撃を繰り出したわけではなかった。

 戦場で鍛え抜かれた戦闘本能だけが体を支配している。

 アルヴァドスが、余裕をもって巨大な剣でリューンの一撃を弾いた。

 否、一瞬、そのように見えた。

 だが、おそらくはアルヴァドスはどこかで油断していた。

 そのほんのわずかな慢心が、彼の完璧な防御を崩した。

 ぎいんという耳障りな音とともに弾かれたように見えたリューンの大剣の切っ先は、軌道はだいぶずれたものの、アルヴァドスの左肩を覆っていた銀色の鎖帷子を切り裂いた。

 わずかとはいえ、鎖帷子が赤い血で汚された。


「ぬっ……」


 ほんの数瞬、信じられぬといったようにアルヴァドスがうめき声をあげた。


「おお……」


「あの、アルヴァドス殿の体に、傷を……」


 観覧席にいた貴族たちが、驚嘆の声を漏らす。

 だが、ガイナス王は、なにを考えているのか金杯で赤葡萄酒を干しながら、薄く笑った。


(なんだ……やれるじゃねえか)


 リューンは、笑った。

 確かに相手は鉄壁だ。

 だがその鉄の壁にはところどころ、ひびの入った箇所があることにようやく気づいた。

 あるいはリューンの死すらも覚悟した透徹した視点がなければ、さらにはアルヴァドスのわずかな驕りがなければ、この傷を与えることは出来なかったかもしれない。

 リューン自身は気づいていなかったが、彼はいつしか戦場でもっとも恐れられる兵、すなわち自らの生すらも放棄した「死兵」となっていた。

 

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