6  戦支度

「くそっ……どうにも、やっぱりこういう部屋はおちつかねえ。それにこの部屋、なんていうかひどく臭いんだよな」


 部屋の隅では、香炉から独特の香りの香が焚かれている。

 その匂いが、どうにもリューンには気にくわない。


「くさい匂いって……馬鹿いうな、兄者! こりゃあ、乳香っていってメーベナンの奥地でしかとれない、最上級の……」


「そんなの、知ったことか」


 リューンは素早く、安物の麻の胴衣とズボンを身につけ始めた。


「おい、兄者……まだ試合までは時間がある。それまではこっちの……」


 カグラーンが、ガイナスより下賜された上等な真紅の絹の衣服を手にしたが、リューンは首を左右に振った。


「馬鹿言うな! もう……戦は始まっているんだ」


 そうだ、とリューンは思った。

 いささか風変わりだが、ここが戦場だと思えばどうということもない。

 たとえ今日、死ぬ運命であったとしても、いつも通りの戦場作法でいくだけだ。

 服の上から、今度は軟式の革を鉄片で補強した鎧を身につけていく。

 汗と金属と血の臭いが染みついている鎧はあちこちがすりきれていたが、重大な破損はない。

 いつものように鎧を丹念に改める。

 一つの鉄片の欠落が、場合によっては命にかかわりかねないからだ。

 鎧をまとうと、ようやく自分が裸でなくなったような気がした。

 なじんだ鎧の匂いには自分の体臭がしみついている。

 はたからすれば凄まじい悪臭かもしれないが、リューンにしてみれば乳香などという香の香りよりも遙かにこちらのほうが心安らぐのだ。

 続いて床から長剣を取り上げる。

 寝台に腰掛け、そのまま背嚢のなかに入っていた砥石を取り出すと、両刃の刃をゆっくりと研ぎ始めた。

 刀身にも、異常はない。

 前回の戦場で少し一部が欠けていたため、新たに打ち直した剣だった。

 刀身は実に四エフテ(約一・二メートル)もある、両手で使うための大剣だ。

 幅も分厚く、敵を斬るというよりは「ぶったぎる」と表現するほうがふさわしいような代物だった。

 実際、リューンはこの剣を使って、何人もの敵兵の首を一撃ではねている。

 さらには、脊椎ごと敵兵を両断したことすらあるのだ。

 実をいえば、よほどの勢いがないと、人間の骨というのは切断できないものだ。

 どんなに切れ味の良い剣でも、それなりの重量を叩きつけなければ骨まで切断することはできない。

 砥石で剣を研ぎながら、あのアルヴァドスという男のことを脳裏に思い浮かべる。

 なにしろ相手はグラワリア有数の大貴族なのだ。

 その装備は、最上級のものを使ってくると考えていいだろう。

 この時代、もっとも重厚な鎧といえば、小さな輪になった鉄を連ねて布地のようにした、いわゆる鎖帷子だった。

 三王国の初期には、鉄の板を使った鉄板みたいな鎧もあったらしいが、いつの頃からかそうした鎧は廃れていった。

 単純に金がかかるせいかもしれないし、あるいは鍛冶技術の衰退とも関係しているのかもしれないが、とりあえずいまのリューンにとってそんなことはどうでもいい。

 鎖帷子は、特に相手の斬撃に強い鎧である。

 普段、傭兵たちが使っているような革、あるいは革を補強した鎧には大剣は効果的だが、相手が鎖帷子をまとってくるとしたら、大剣の切断力もどこまで通じるかわからない。

 鎖帷子は切断する種類の攻撃には鉄壁の防御力を誇るが、刺してくる種の攻撃に弱い。

 なにしろ鉄輪を連ねているので隙間があるためだ。

 それを補うため、普通は縮充した羊の毛織物などを下に何枚か着込むが、それでも刺す武器が鋭ければなんとかなる。

 リューンは背嚢の脇に刺してあった短剣を二本、取り出した。

 この短剣は特殊なもので、「鎧抜き」などとも呼ばれる。

 その名の示すとおり、鎧……特に金属製の鎖帷子を貫くのに有効な代物だ。

 鎧抜きを、腰の鞘に二本、吊した。

 再び、大剣の刀身を研ぎ始める。

 アルヴァドスはとてつもない巨漢だ。

 いうなれば、その巨体がすでに武器となりうる。

 リューンも相当の長身ではあるが、その彼よりも頭一つちかく背が高いのだ。

 ほとんど奇形に近いほどの異常ともいえる身長だった。

 ゼヒューイナスのあたりでは、古代よりの謎めいた魔力のせいか、背の高いものが多いという話を改めてリューンは思いだした。

 実際、ゼヒューイナスの傭兵といえば、大男の代名詞のようなものだったのだ。


(相手はそのゼヒューイナスを治める侯爵様だ……ふん、なるほど、でかぶつどもの親玉にはふさわしいってわけだ)

 

 実をいえば、そのあたりで不安がないといえば嘘になる。

 リューンはいままで、自分の巨躯と敏捷さを武器に、戦場を渡り歩いてきた。

 逆に言えば、いままで戦ってきた相手のほとんどは自分より身長の低いものばかりだったのだ。

 こちらが見上げるような相手と戦うのは、リューンの長い戦場経験でも、数えるほどしかない。

 往々にして、筋肉質の巨漢というものは己の膂力を誇りすぎ、長い得物を使うことが多いものだ。

 いままでの数少ない経験では、リューンはその相手の隙をつき、いきなり懐に入り込んで敵を討ち取った。

 果たして、今回はそんな戦術が通じるのかどうか。

 せめてアルヴァドスがどんな武器と鎧を使うかわかっていれば、それにみあった「脳内での模擬戦」を行うことが出来たのだが。

 リューンのように戦慣れした傭兵は、相手の体格や装備を見ただけで、即座にどのように動けば敵がどう反応してくるか、その予想を一瞬にして何十通りも心のなかで明確に映像にすることができる。

 だが、アルヴァドスは特に得意な得物はない……というよりは、どんな武器でも使いこなす相手らしい。

 剣か。

 槍か。

 あるいは、長柄斧のような棒状武器か。

 さすがに短剣や小剣を使うといったことはないだろうが、予備の武器としては当然、そうしたものを用意してくるだろう。

 リューンとしては、なるべく大きく、そして重い武器を相手が用意してくることを期待していた。

 とりあえず、大貴族であるからにはアルヴァドスにも体面というものがある。

 やはりへたな奇策は使いにくいはずだ。

 となれば、重厚な、全身をくまなく覆う鎖帷子に長大な得物を使ってくる、と考えるのが自然なはずだ。

 この場合、相手はこちらを懐に近づけず、遠距離から得物をつかって仕掛けてくるだろう。

 それが正道だとすれば……たぶん、自分にも勝ち目はある。

 勝機は十分にある。

 いや、勝機は常にあるものなのだ。

 そして優れた傭兵、戦死というものは、そのごくわずかな勝機を決して見逃さぬ者なのである。

 リューンは不敵な笑みを浮かべた。

 彼は伊達に長年、戦場を渡り歩き、数えきれぬほどの強敵を殺してきたわけではないのだ。

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