5  母の夢

 遙かな地平の果てに、沈みゆく太陽の姿が見えた。

 だが、空は真っ暗で、落日に特有の茜色の光は見受けられない。


『ご覧、リューン』


 リューンは、誰かに手をひかれていた。

 ずいぶんと背の高い女だな、と一瞬、思った。

 この自分より長身……どころか、こちらが相手の腰のあたりにようやく届くかどうか、といったところだ。

 いや、それも不思議じゃない。

 俺はまだガキなんだから。

 ふとそんなことを思った。

 そういえば、懐かしい匂いがする。

 これはたぶん、母だ。

 母が、手をひいてくれている。

 彼女は地平の果てにゆっくりと沈んでいく太陽を見ながら言った。


『かつてこの地はセレンディーアと呼ばれていた。そこに海の向こうのネルサティアから、あの太陽の神を信じるネルサティア人がやってきて、私たち、セレンディーアの民を征服した……』


 母から何度も何度も聞かされた言葉だ。


『だがね、リューン、よくお聞き。見ての通り、太陽は沈もうとしている。これがなにを意味しているかわかるかい?』


 これも何度も聞かれた問いだった。

 太陽は太陽神ソラリスのことで、つまりネルサティア人たちの皇帝や王のことだ。

 その太陽が沈もうとしていることは……。


『そうだよ。もう、ソラリスの血をひく王たちの時代が終わろうとしているってことだ』


 古い王たちの時代が終わる。

 では、次にくるのはどんな時代だ?


『リューン……何度も話したと思うが、お前は実は、嵐の神、偉大なる神ウォーザの子なんだよ』


 またその話か。

 母はいつも、とてつもない秘密をあかすように「実はお前の父はウォーザ神だ」と告げるのだ。

 しかし、神々が人間と子供をつくるなんてことがあるのだろうか?


『だからお前はウォーザ神その人のように身の丈高い偉丈夫で、しかも「ウォーザの目」を持っているんだ』


 ウォーザの目。

 右が青、左目が灰色の瞳のことだ。

 だが、それをいうならばあのレクセリアというお姫様もひょっとしたウォーザ神の子だとでもいうのか?


『いいかい、ウォーザの目を持つものは……いつか「嵐の王」となる。リューン、お前は王になるんだよ。それもネルサティアからの古い太陽を信じる王じゃない。嵐の神を信じる、新しくやってくる時代の王だよ』


 嵐の王。

 この話も、耳にたこができるほど聞かされた。


『嵐の王は、古い者をみんな暴風でなぎたおし、稲妻で打ち倒してしまう。いいかい、稲妻の娘たちがいつかお前たちのもとにやってくる……それは、神からの助けだよ』


 稲妻の娘たち。

 どこかで聞いた話だと、ふと思った。


『お前は神々により、このセルナーダに新しい時代をもたらす運命を授かっているんだ。それは、嵐と稲妻の時代……荒々しい歓喜と暴力の時代だ。それこそが、リューン……お前の決して逃れられぬ定めなんだよ。リューン、お前は嵐の王に……』


「……にじゃ。兄者! 兄者!」


 はっとなって顔をあげると、蛙みたいなぎょろりとした目玉をした小男がこちらを見下ろしていた。

 我が弟ながら、とても血が繋がっているとは思えない。

 カグラーンとは異父兄弟らしいが、俺の親父がウォーザ神ならこいつの父親はどんな神なんだろう、といささか寝ぼけた頭でリューンは考えた。

 だが、すぐに意識が覚醒していく。

 そもそも、寝ぼけるということ自体、リューンには滅多にない経験である。

 優れた傭兵のほとんとがそうであるように、リューンは熟睡しながらも、なにか周囲に異変があれば即座に目が醒めるという習性にも似たものを持っている。


「ちっ……久々に、おふくろの夢を見たから、なんかぼうっとしちまった」


 途端に、カグラーンが顔色を変えた。


「なんだって! 兄者、おふくろの夢を見たってのか!」


 カグラーンは、はっきり言ってしまえば母親にひどく嫌われていた。

 母は弟を何度もこづいたり、「こいつは私の子供なんかじゃない」と喚き散らしたりしていたものだ。

 だが、カグラーンにとって母は唯一、神聖な存在らしい。

 なにしろいまだに、母が処方した通りの薬草茶を必ず飲んでいる。


「いいなあ……俺は、おふくろの夢なんて見たこともないよ……」


「いい歳して、おふくろのおっぱいを恋しがることもねえだろ」


 リューンは顔をしかめると、あたりを見渡した。

 赤い絨毯に赤い飾り布、さらには壁面も赤い砂岩や赤大理石を使われた豪奢な調度の部屋である。

 ここは紅蓮宮でも、本来であれば相当に高位の貴族が泊まる部屋らしい。

 馬鹿みたいにだだっ広い部屋だった。

 寝台も金などで飾られており、天蓋までついている。

 布団や敷布にいたっては、シャラーン渡りの絹を用いた最上級の代物だった。

 寝台の脇には、荷物を運ぶための革の背嚢と一本の長剣、そして鎧が置かれている。

 傭兵として戦場に出る際、いつも用いているものばかりだ。


「そうか……いよいよ、か」


 リューンは、今日が自分の運命を決める日であることを、改めて思いだした。

 だが、奇妙に現実感というものがない。

 あるいは今頃、自分はどこかの戦場で憑かれて寝入っているのではないだろうか。

 ひょっとすると、油虫がはい回る安酒場で沈没しているということも考えられる。

 まるで不可思議な夢のなかに彷徨い込んでしまったようだ。


「兄者……しっかりしてくれよ」


 カグラーンが肩をゆさぶった。


「なんだかまだ、寝ぼけているみたいだぜ。本当に大丈夫なのか?」


「ああ、俺は全然、平気、平気」


 とは言ってみるが、まだどこかで非現実感のようなものは消えてくれない。

 腰の下着一枚のままほとんど裸の姿のまま、寝台から降りてみると床のふかふかした、沈むような感触に一瞬、驚いた。

 あまりにも上等な絨毯のせいか、まるで雲の上でも歩いているかのようだ。


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