2 忌まわしき教義
くく、くくくく、という狂気じみた低い笑い声が聞こえてきた。
まさか長期間にわたる囚人生活で、狂気を司る神にホスに憑かれてはいまいな、と少しマイアネスは不安になった。
「なぜ……俺がエルナス公を殺そうとしたかって? なぜ、俺が奴を殺そうとしたか……そいつは、実に簡単なことだ」
再び、扉の向こうから笑い声が聞こえてきた。
「エルナス公は……俺の娘を、殺した」
「なぜだ?」
ディーリンが尋ねた。
「なぜエルナス公が、ただの鍛冶屋の娘を殺さねばならない? そこにどんな理由があるというのだ?」
「教義だよ」
アティスが答えた。
「奴らの信じる神の教義のために、俺の娘は殺された……以前から、噂はエルナスのあたりじゃ、ちょっとはあったんだ。もちろん、俺も最初はそんな噂は信じちゃいなかった……ただの、ただのエルナス公の人気をねたんだ馬鹿の流した噂だと、そう思いこんでいた……」
鍛冶屋だった男は、大きく吐息をついた。
「先代のエルナス公の治世にはいろいろとあって……エルナス公領は盗賊だの、強盗団だのが跋扈していた。夜中にエルナスの都を一人で歩いている奴は、必ず殺される……そんな話が当たり前のようにまかり通っていたことさえあった……」
アティスは話を続けた。
「ところが、新たにエルナス公に即位したゼルファナスは、先代とは違った。衛視隊を強化して、徹底的に領内の盗賊討伐を行った。衛視だけじゃなくて騎士まで使って、犯罪者どもを駆り立てたんだ。そのかわり、銅貨一枚盗んでも死罪となったが……それでも、俺たち馬鹿な領民は、ゼルファナスを……新たなエルナス公のことを新たな救い主かなにかのように信じ込んじまった……それが、ただのエルナス公の『教義』のせいだったともしらずに……」
扉のむこうに、しばし沈黙が落ちた。
「そう……なにもかも、『教義』だったんだ。奴らは奴らの信じる神の教えを忠実に実行していた。ただそれだけの話だ……『出来うる限りの人間を殺せ』……それが奴らの教えだ。エルナス公ゼルファナスは、まず最初に『殺しやすい獲物を選んだ』にすぎない。罪人だったら、殺しても領民から感謝されこそ、憎まれることはないからな……」
ふいに、アティスが咳き込んだ。
「だが……領内の盗賊や強盗どもが綺麗さっぱり殺し尽くされると……奴は、新たな獲物を探し求めた。そして、ヴァラル村が、その獲物として選ばれたってわけだ……」
うめき声のようなものをアティスはあげた。
「俺たちは馬鹿だった……自分たちが殺されるとも知らず、エルナス公を救い主だとばかり信じていたんだからな! いまでも、あの夜のことははっきりと覚えている……ああ、覚えているよ……」
アティスが、獣のように声を放った。
「なんて恐ろしい夜だったんだろう……銀の月が新月のせいで、あの夜は赤の月と青の月の薄紫色のぼんやりとした月影に照らされていた……いや、ほとんど真っ暗に近かった……そこに、『奴ら』がやってきたんだ」
「奴ら?」
ディーリンが尋ねた。
「奴らとは……」
「真っ黒な陣羽織を羽織った騎士たちさ! おまけに黒い外套をまとっていた! 奴らは……奴らは、ヴァラルの住民を広場に集めると、次々に殺し始めたんだ。むちゃくちゃだった。なんで殺されるのか俺たちにはわからなかった。ただ……奴らを率いていたのは、エルナス公ゼルファナスだった。ちゃんと兜のまびさしを上げたところを見たんだ。間違いない」
「しかし……当日は、銀の月が新月だったという話だが」
ディーリンの問いに、アティスが笑った。
「はは! いくら暗くたった、あんな美男がそうそういるわけないだろう! 間違いない、あいつはゼルファナスだった! そして、奴は言った……『お前たちが、死の女神ゼムナリアの信者であることはわかっている。裁きにより、お前たちを死罪に処す』と」
ディーリンがうなり声をあげた。
死の女神ゼムナリアへの信仰は、人々の間で恐れられている。
なにしろかの女神は、自殺、他殺を問わず、ありとあらゆる種類の死を奨励するからだ。
「お前たちはゼムナリア信者だったのか?」
それを聞いて、アティスが怒声を放った。
「冗談を言うな! ヴァラル村は、ソラリスのお日様のもとでみんな全うな暮らしを送ってきた! 忌まわしいゼムナリア信者なんているものか! それなのにゼルファナスの野郎は……次々に、女子供も、赤ん坊まで、皆殺しにしやがった……奴も、奴らが率いる騎士たちも愉快げに笑いながら殺し、家々に火をつけた……むちゃくちゃだよ。なにもかもがむちゃくちゃだった。そして俺の娘も……娘のアティアも、殺された……」
アティスの声には、凄まじい憎悪の念が込められていた。
「生き残ったのはたぶん、俺一人だろう……運が良かったとかしかいいようがない。だが、俺は逃げる直前に、エルナス公と、そのそばにいた少年が話し合っているのを聞いたんだ……俺の娘、アティアの死体を見ながら奴らは言った……『この娘はなかなかに美しいので、動死体として仕えさせてはいかがでしょう』と……つまり、いまもアティアはあのエルナスの城で、生ける屍として辱めを受けているんだ……古来から動死体を操るのは闇魔術師と……ゼムナリアの僧侶と決まってる! そして、ゼルファナスの野郎は確かに言ったんだ!」
アティスは震える声で叫んだ。
「『確かに美しい娘だ……我が守護女神たるゼムナリアにかけて、この娘を姉上に仕える動死体の侍女にしよう』とな!」
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