第三章  疑惑

1  地下牢にて

 この時代、どのような領主の城にも、たいてい地下牢というものがある。

 領内で罪を犯した罪人が、牢に入れられる。

 領主は裁判を開く権利があり、裁判を行う。

 成文法としてはかつてのセルナディス帝国法を実情にあうように改訂したアルヴェイア王国法があるが、これは刑事事件などをすべて網羅しているものとは違う。

 実際、平民の裁判などは領主の人となりとその日の機嫌しだいで判決が決まることも珍しくはない。

 一応、王国には法務院という役所があり、そこに王国判事が役人として詰めてはいるが、王国判事が出張ってくるのはそれなりに大きな事件だけである。

 また、領主のほうが自らの裁判権を守るため、重大事件でも王都に王国判事の派遣を招請しないことも珍しくはなかった。

 とはいえ、王都メディルナスで起きた犯罪は、いささかそうした地方でのものとは扱いが違ってくる。

 王都メディルナスは、その名の通り、王のすまう都である。

 だが、同時に王都は、厳密には行政区分としてはメディルナス公爵領として扱われているのだ。

 そのため、王都で起きた犯罪は原則としてメディルナス公が裁判を行うこととなる。

 だが、現在、メディルナス公爵は国王であるシュタルティスが兼任していた。

 理屈でいえば国王が裁判を行うことになるが、王都は人が集まっているだけにさまざまな凶悪犯罪も多く、いちいち裁判などやっている暇もない。

 そこで活躍するのが、領主裁判の補佐を行う王国法務院の判事たちである。

 彼らは帝国期の頃からの各種法に通暁している。

 王国内のさまざまな不正を暴き、領主間の領地争いなどでは王の替わりに裁きを下すこともある国家の選良である。

 マイアネスも、そうした王国判事の一人だった。

 彼が現在、扱っている案件は、先年の諸侯会議の際、エルナス公ゼルファナスを襲った犯人に対する者である。

 だが、この一件が、思わぬ展開を迎えていたのだ。


「本来であれば……これは、その、許されるべきことではないのですが」


 薄暗い通路を歩きながら、マイアネスは言った。

 獄吏が手にした松明の光が、あたりをおぼろに照らしている。

 青玉宮の地下牢には二種類あるが、いまマイアネスたちが向かっているのは、そのなかでも爵位や騎士の位を持つ上流階級向けのものとは違う、平民向けの地下牢だった。

 居住環境は最悪といっていい。

 冬だというのに暖をとるためのものは一切なく、息を吐くたびに白い霧が顔の前に生まれていく。

 なにしろ四六時中、闇に閉ざされているため、氷室と変わらぬ冷え冷えとした空気に満ちている。

 さらに換気も悪いため、一刻(二時間)もいるだけで悪臭や穢れた空気に、胸が悪くなってくる。

 ただれた膿や血臭、反吐、汗、排泄物といった臭気が凍りつくような大気にとけ込み、冷気と汚臭の地獄を生み出していた。

 ときおり、鉄で補強された木造の頑丈な扉の前を通り過ぎるたびに、中から囚人たちのうめき声や、発狂したような笑い声が聞こえてきた。

 中に足を踏み入れるだけで、かなりの胆力を必要とされる空間である。

 足下の石床を得体の知れぬ黒光りした虫や百足の類が歩き回っている。

 蝿や羽虫が、通路をぶうんという音をたてて飛んでいるときもあった。


「なるほど……噂には聞いていたが、確かにこれはひどい場所だな」


 香で焚きしめた絹の手巾で鼻を押さえながら、マイアネスと獄吏の後ろにいた男が言った。

 大きなぎょろりとした目に太い大きな鼻、そしてやはり大きな耳と、なかば禿げ上がった頭の持ち主である。

 目が大きな一種の異相の持ち主だが、普段は温厚そうな笑みを浮かべていることから「温顔伯」の異名を持つ。

 セムロス伯ディーリンである。

 マイアネスの言う通り、諸侯が勝手にメディルナス公……この場合、つまりは国王シュタルティス二世……の許可無しに、この場所に立ち入ることは許されてはいない。

 だが、ディーリンはマイアネスにそれなりの金子、要するに賄賂を渡して地下牢のとある囚人のもとへと案内させているのだ。


「重ね重ね申し上げますが、この件についてはくれぐれもご内密に……」


「わかっているよ」


 ディーリンは、どこか冷たい笑みを浮かべながら言った。

 やがて彼らは何段もの階段を下り、地下牢の最下層の一画へと辿り着いた。

 ここは、特に重罪を犯した者を管理しておくための部屋である。

 なかにはいずれ、死罪に処される者も少なくはない。

 絶望がそのまま空気となってこの地下の深奥の薄暗いあなぐらに立ちこめていた。

 獄吏が通路の鍵を開け、さらに一行は先へと進む。古代ネルサティア語で扉に「七」と彫り込まれた部屋の前で、マイアネスは立ち止まった。


「七番……虜囚七番、起きているか?」


 そのとき、部屋の扉の向こうから、がさりという物音がした。


「俺は虜囚七番なんて名前じゃない……」


 それなりに年を経た男の声だ。

 少なくとも三十、いや四十は超えているだろう。

 幾度か拷問をうけたせいでだいぶ体力は弱っているようだが、それでもまだ気力は残っているようだ。


「俺の名は……アティス。ヴァラル村の鍛冶屋アティスだ……」


「ヴァラルのアティスとやら」


 ディーリンが言った。


「そのほうは、エルナス公を襲撃し、殺そうとした。この容疑は認めるか?」


「認めるもなにも、ないだろ」


 アティスが舌打ちをした。


「俺はあのいかれた殿様を殺そうとして、捕まったんだ。これ以上、俺になにを言えっていうんだ?」


 どうやら、すでにアティスは自らの死も、なにもかもを受け入れているらしい。


「いくら責めたって無駄なことだぜ。俺がいままで言ったことは、みんな本当のことだ。どんな拷問にかけられようと、本当のことは、本当のことなんだ」


「このおかたに」


 扉の向こうの相手に、マイアネスは言った。


「お前が知っていることをすべてお話しろ。ことと次第によれば……お前の望みが、かなうかもしれんぞ」


 そう言いながらも、マイアネスは自分の声の震えを押さえることが出来なかった。

 王国判事になったときから、それなりに諸侯の権力闘争や王国の官僚同士の派閥争いに巻き込まれることは覚悟していた。

 なにしろ彼の生まれは小さな男爵領の四男というものである。

 王立研鑽所で学び、こうして王国官僚にならなければいまごろどうなっていただろう。

 だが、それにしてもこれほどの政争……あるいは、諸侯同士の争いの片棒を担がされるとは夢にも思わなかった。

 もし、これがうまくいけばいい。

 もしセムロス伯がこの「戦い」に勝利すれば、自分の栄達は約束される。

 だが、もし……。

 そこまで考えて、マイアネスはかぶりを振った。

 いまさらなにを言っているのだ?

 もうここまで足をつっこんだ以上、逃げ場はない。

 こうなればセムロス伯と一心同体となって、セムロス伯の牛耳る宮廷と王国で栄達の道をはかる他ないのだ……。


「ヴァラルのアティス」


 マイアネスは、覚悟を決めると言った。


「なぜお前は、エルナス公閣下を害しようとしたのだ? そのすべてを、お話しろ」


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