9 紅蓮宮の虜囚
俗に「グラワリアの黒土」と呼ばれる言葉がある。
そんな呼び名がつくほど、グラワリアといえば土が黒いことで知られていた。
決して豊かな土壌ではなく、柔らかな土で雨がふるとすぐにぬかるむ。
綿花の栽培や牧草を育てるのにはそれなりにむいた土だが、基本的に穀物を育てるのにあまり良い土とはいえない。
大地や岩石に詳しい賢者たちによれば、この黒い土は地下から吹き上げてくる火山性の溶岩が、風化して粒子状になったものだという。
そもそもグラワール湖そのものが、遙か太古には大地にうがたれた亀裂でそこから黒土のもととなった溶岩が噴き出していたのだというが、真偽のほどはさだかではない。
いずれにせよ、土も石も、グラワリアでは黒いのが当たり前である。
そのため、グラワリアの都市はみな黒い石材や漆喰で作られ、「グラワリアの黒い都」などとも呼ばれている。
だが、紅蓮宮はそうした多くのグラワリアの都の建物とは異なり、不吉なほど鮮やかに赤い色をした壮麗な建築物だった。
そもそも使っている建材が違う。
東の石切場でとれた、真っ赤な砂岩を主体にして、赤大理石などが多用されているのだ。
アルヴェイア王宮の青玉宮などとは違い、王都グラワリアスの郊外、「王の丘」と呼ばれる丘陵地帯に建てられている。
冬枯れした茶色い草と黒い土からなる世界のなかに、そこだけ別世界のように、赤い城壁で囲まれた紅蓮宮がうずくまっていた。
三王国の他の王城と同じく、単に王の居城であるだけではなく、さまざまな文官の詰めた王国行政の中心でもある。
とはいえ、アルヴェイア同様、現在では王権や中央集権の力は弱まり、諸侯が力を持つのが今のグラワリアだった。
そもそもスィーラヴァス派の反乱……王であるガイナスからみればどんな大儀があろうと、それはただの反乱である……も、グラワール湖岸の都市を領する諸侯たちが真の敵のようなものだ。
だが、長きにわたる戦の趨勢は、いま微妙に変わりつつあった。
「殿下……お聞きになりましたか? ついに、ガイナス軍はマシュケルをおとしたそうですぞ。マシュケルといえば、ここのところ、スィーラヴァス軍による占領が続いていた都です。武具の生産、そして造船……マシュケル奪還は、ガイナス軍の悲願でありました。そのマシュケルを落としたということは……」
青い鮮やかなローブをまとった男が、興奮したように一気にまくしたてた。
否、彼らは厳密には男ではない。
このセルナーダの地では数少ない、宦官と呼ばれる男性器を切除された人物なのだ。
黒い巻き毛がかった髪の、一見するとどこかの家庭のおかみさんのようにもみえる、木訥とした雰囲気の持ち主である。
だが、その青い瞳には高い知性をしめす鋭い輝きが宿っていた。
宦官の名は、ヴィオスという。
アルヴェイア第二王女、レクセリアづきの宦官であり、彼女の教育役である。レクセリアが赤子の頃からヴィオスは王女の世話をし、教育を施してきたのだ。
自らの持つ高い知識と教養を、ヴィオスはレクセリアに注ぎ込んだ。
良き弟子として、レクセリアは宦官から与えられるさまざまな知識をどんどん吸収していった。
歴史。帝王学。軍学。語学。紋章学。
さらにはアルヴェイアや三王国の有力家門の複雑な姻戚関係に至るまで。
ヴィオスには大望があった。
いまの三王国は、互いに長きにわたる戦乱を続け、疲弊しきっている。
民の生活は苦しく、治安も悪化している。
だが、優れた王族が、民のための政事を行えば事態は打開するのではないか。
それが自ら宦官になることを選んだ、ヴィオスの夢だった。
少なくとも南部諸侯の反乱を鎮撫した際、レクセリアはヴィオスの望み通りの活躍をしめした。
女ながらに、自軍を遙かにまさる敵軍を撃破したのである。
その声望は高まり、彼女は一時的に休戦したガイナス、スィーラヴァス連合軍と、アルヴェイア東北部、ネルディの地で戦うことになった。
だが、この「ヴォルテミス渓谷の戦い」で、レクセリアは負けた。
敗因にはいろいろと原因があるが、負けは負けである。
レクセリアは自ら敵将ガイナスへの投降を選んだ。
そうでもしなければ、両軍ともいたずらに兵を損耗し、無駄に死者を増やすだけと判断したからだ。
しかし、その結果は無惨なものだった。
なんとガイナスは一万もの捕虜を皆殺しにしたのである。
ヴォルテミス渓谷の虐殺とも呼ばれる恐ろしい事件は、全セルナーダを震撼させた。
そしてその衝撃は、なにより将兵を無駄死にさせたレクセリアの精神に、深刻な影響を及ぼしていた。
「こうなると……マシュケルを占領したガイナス軍は、このままグラワール湖の南岸を沿って西に進軍するかもしれません。なにしろマシュケルの西には、スィーラヴァス派の諸侯が統治する都市がずらりと並んでいますからな……」
だが、ヴィオスの言葉も、ほとんどレクセリアには届いていないようだった。
実際、豪奢に飾り立てられた椅子に座っているレクセリアは、まるで人形のようだった。
右目は青、左目は銀色というあの不可思議な組み合わせの瞳も、まるで硝子玉のようだ。
もともとの顔立ちがかなり整っているので、感情をほとんど表に出さないとますます作り物めいてみえる。
ひどく美しい姿をした等身大の人形、といった感じなのだ。
白みがかった黄金色の長い髪さえ、あまりに美しすぎるためもあって、まるで人造物のようだった。
青いドレスの他、ガイナスが用意させた紅玉などをあしらった髪飾りや首飾りを身につけていたが、なぜかそれが、見る者にひどく無惨な感じを抱かせた。
実際には、レクセリアは紅蓮宮に軟禁状態にあるとはいえ、その扱いはきわめて良好である。
むろん警備は厳重だが、まさに下にもおかぬ扱い、といった感じなのだ。
そもそもこの部屋も、紅蓮宮三階の、かなり壮麗な装飾で飾られた貴人のための部屋である。
広大な部屋で、天井には稲妻を放つランサール女神が春のグラワリアに恵みの雨をふらせるという美麗な宗教絵画が描かれている。
床に敷かれた毛足の長い絨毯も、シャラーン製の最高級のものだし、天蓋つきの寝台には絹とグラワリア綿、それと羽毛を使った上等な布団が敷かれていた。
さらには一日三度、運ばれてくる食事も贅をこらしたものばかりだ。
軟禁というより、ほとんど賓客に対する扱いである。
だが、それでもやはり、レクセリアが虜囚の身であることには替わりがない。
かつてのレクセリアであれば、ヴィオスの得た情報をもとに、これからグラワリアがどうなるか、いろいろと考えたりして時間をつぶしていただろう。
また、現在の立場を利用して、逆に紅蓮宮内で謀略をしかけるくらいの真似はしてのけたかもしれない。
しかし、あのヴォルテミス渓谷の虐殺は、彼女の心のなかに癒しがたい傷を与えていた。
こうして椅子に座り、硝子窓の外の花々のしおれた冬の庭園の光景を見ていても、考えるのはあの虐殺のことばかりだ。
いまでも、耳には一万もの将兵の悲鳴が耳について離れない。
(私のせいだ)
それは後悔、などという生やさしい言葉で表現できるものではなかった。
(私のせいで……一万もの、私の兵士が死んだ。私が殺したようなものだ。私が……)
もう、涙など枯れ果てている。
ただぽっかりと、心にあまりにも巨大な空隙が空いてしまっている。
(私が彼らを殺した。私が……)
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