6 陥落
「くそっ……マシュケル伯の船が……逃げたらしいぞ!」
「なんてこった! 俺たちをおいて、自分だけ逃げるつもりか!」
すでに城壁を支配したガイナス軍兵士が、城壁の階段を下って堤防の上を突破した大河の水のようにマシュケル市街に侵入を始めている。
さらにいえば、城壁という堤防が切れた部分、すなわち東門からとぎれることなく一万ものガイナス軍がマシュケル内部に流入してくる。
これに対し、スィーラヴァス軍は完全に浮き足立ち、崩壊を始めていた。
一度、崩れ始めるとあっという間に組織が崩壊するのが戦の常である。
今回のマシュケル防備軍も、その例に漏れなかった。
「港だ!」
「港に行けば助かるぞ!」
悲鳴とも、あるいは祈りにも似た叫び声をあげながら、二千の兵たちが市街地を駆け、マシュケルの北の港へとむかって駆け始めていく。
だが無情にも、兵士を満載した軍船は次々に岩壁を離れ、グラワール湖へとこぎ出していた。
なかにはあまりにも多くの兵士を乗せているため、喫水が異常な位置にまであがり、そのまま沈みそうな船まである。
「港を押さえろ!」
「港さえ押さえれば、完勝だ! 敵をこれ以上、逃がすな!」
ガイナス軍側からすれば、すでに勝利は確定している。
あとはこの勝利をいかに完全なものにするかだった。
もしこのまま敵兵に逃げられれば、後日の戦でその敵兵と戦うことになるかもしれない。
その兵数が多ければ、後日の戦で「あのときマシュケルでしとめていれば」ということになるかもしれないのだ。
ガイナス軍はガイナス軍で、勝者の余裕などとてもではないがなかった。
あちこちから集まってきた兵士たちで港の埠頭はあふれかえった。
一体、この街のどこにこれほどの兵たちがいたのか、と思うほど大量の兵たちが港に集結を始めている。
否、集結というよりはみな生存本能に従うがまま、港へと逃亡した結果、たまたま港が混み合っているというべきか。
「もうこれ以上、載せると船が沈むぞ!」
「出航させろ! これ以上は無理だ!」
すでに船に乗り込んだ兵士からすれば、一刻も早く港から出港したい。
なにしろぐずぐずしていれば、ガイナス軍がやってくるのだ。
一方の、まだ船に乗っていない兵からすれば、軍船だけが自らの命をつなぐ頼りの綱だった。
「待ってくれ! まだ船を出すな!」
「置いてかないでくれ! このまま、殺されたくない!」
いまだ乗船していない兵士からすれば、それは必死の願いだった。
ガイナス軍は、先年のヴォルテミス渓谷の戦いで、投降したアルヴェイア軍の捕虜を虐殺している。
以来、ガイナス軍と内戦を開始したスィーラヴァス軍の軍中では、虜囚とはすなわち死を意味する言葉となったのだった。
これが貴族諸侯や、騎士階級といったそれなりの身分、財産を持つ相手なら話はまた別である。
彼らは捕虜となっても、身代金を……ただしそれは莫大な額にぼる……払いさえすれば解放してもらえるのだ。
これは別に、ガイナスが貴族や騎士を優遇しているわけではない。
単にとてつもない身代金を敵に払わせることで、敵側の経済力を完膚無きまでに疲弊させ、同時に自分たちの軍費を稼ぐという意味がある。
しかし、一般から徴用された兵卒に、そんな身代金を払う力などあるはずがない。
となれば、彼らはガイナス軍の兵士の手に落ちたが最後、娯楽の道具として嬲り殺しにされるのが落ちである。
ガイナス軍の残虐ぶりは、いささか誇張されていたが、おおむね事実としてスィーラヴァス軍の兵士にも伝わっていた。
もしガイナス軍の兵士に捕まるくらいなら、自分で死んだほうがまし、という者も少なくない。
とはいえ、いざとなれば最後まで生をもとめてあがくのが人という生き物のさがである。
それが、いまマシュケル港で行われているさまざまな悲喜劇を生み出していた。
渡り板をまだ人が渡っているというのに、岸壁から離れていく船がある。
また、あまりにも大量の兵士を乗せたため、そのまま人の重みで沈み始めている船まであった。
スィーラヴァス軍の兵たちの悲鳴が、そしてガイナス軍の兵たちの悪鬼じみた笑い声がマシュケルの城壁のなかでこだまする。
ガイナス軍は、今回は略奪を厳禁されている。
となれば、彼らの戦場の狂気によって昂ぶった思いは、敵兵にぶつけるしかない。
街のいたるところで、ガイナス側の兵に捕まったスィーラヴァス軍の将兵たちが、むごたらしい虐殺にあっていた。
ただ単純に殺すというより、もはや一種の娯楽のように扱われている。
やがて、マシュケル港の一画から、火の手が上がり始めた。
偶然、失火したというわけではない。
なにしろその炎は、造船所で建造中だった船だけを狙って燃え上がり始めたのだから。
さすがにスィーラヴァス軍は造船所そのものは破壊しなかったし、またその時間もなかった。
さらにいえば、いつマシュケルをまた奪還するかもしれないのだ。
そのとき、造船所はまた使える。
とはいえ、建造中の船は、そのまま建造を再開されてガイナス軍の軍船となる可能性がある。
そのため、あらかじめ命じられていた命令通り、マシュケル失陥がさけられなくなった時点で造船中の船が焼かれ始めたのだった。
油染みた黒煙が立ち上り、赤い炎の舌が作りかけの船を取り巻いていく。
こうして、今回のマシュケル攻略戦は、ガイナス側の勝利によって終局を迎えたのだった。
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