9  密談

 セムロス伯ディーリンの息女、シャルマニアに国王陛下のお手がついたらしい、という噂はたちまちのうちに青玉宮を駆けめぐった。

 青玉宮とは、王城であり、基本的にアルヴェイア国王と王族たちの住居である。

 となれば、その世話をする女官、侍女などと呼ばれる女性たちが多数、詰めている。

 王国の色である鮮やかな青に、白い前掛けや帽子といった服装の彼女たちは、普段から王宮のあちこちに集っては、さまざまな噂話に花を咲かせていた。

 もとより、青玉宮の侍女になれるというだけで、いわゆる平民出身の者はほとんどいない。

 彼女たちのほとんどは、下級貴族や、騎士階級の娘たちである。

 実のところ、さすがに国王はともかくとして、隙あらば青玉宮に集う諸侯の嫁になろう、と虎視眈々と機会をうかがっている者も少なくなかったのだ。

 とはいえ、たいていは貴族たちに「遊ばれる」だけで、実際に貴族の妻になれることはほとんどなかったのだが。

 だからこそ、今回の噂については、さまざまな観測が流れていた。


「聞いた聞いた? 国王陛下が、シャルマニア嬢と一夜をともにした、とか……」


「なにいまさら言っているの? あんた、噂にうといわね。もうシュタルティス陛下は、一夜どころか、何回もシャルマニアって娘を寝室に引っ張り込んでいるらしいわよ!」


「らしいわね……アメレアがシャルマニア嬢と陛下が、同じ寝台で寝ているところに葡萄酒を運んだとかって聞いたけど……」


「でも……これって、婚前交渉よね?」


 一般的に、男系社会であるセルナーダの地では、婚前の娘は処女が望ましいとされている。

 ただし実際にはそうでないこともよくあるのだが。


「なにうぶなこと、言っているの! 相手は国王陛下よ! 実の妹と結婚しているようなおかたなのよ! そっちのほうは……ほら、なんていうか、なんでもありっていうか……ね……」


「でも、ミトゥーリア様は、心中複雑でしょうね……」


「まあね……でも、ミトゥーリア様も、もともとシュタルティス陛下の妹御であられるし、国王が夫人を何人も持つのは当たり前のことでしょう? それくらいの覚悟は出来ているんじゃないの?」


「でも……このままだと、これからはやっぱりセムロス伯派のほうが、宮廷で幅をきかせるってことなのかしら……」


「まあ、シャルマニア様はセムロス伯家のご令嬢だし、陛下の寵愛をうければ、当然、そういうことになるでしょうね……」


「なんかそれって悔しいわ! 私、断然、エルナス公のほうが好きなのに!」


 その美貌からいって当然といえば当然のことではあるが、エルナス公ゼルファナスは宮廷の侍女、女官たちの間では絶大な人気を誇っていた。


「シャルマニア嬢のこともあるし、最近、頻繁に開かれる『大樹の宴』といい……今じゃ、エルナス公派よりも、セムロス伯派のほうが押している感じね」


「なにしろ、馬鹿な王国官僚たちも、宴席に出ることですっかりセムロス伯家支持にまわっている奴らのほうが多いらしいじゃない。あんまり大きな声じゃいえないけど、金子をもらっているのもいるって……」


「それって……もしかして賄賂じゃないの」


「もしかしなくても、賄賂よ」


「でも……いまさら、賄賂ごときでごたごたぬかしてもねえ」


 宴席に出るのはかまわないが、王国官僚は直接的な金品を諸侯からうけとってはならならいというのが定法である。

 だが、なにもセムロス伯に限らず、王国の政策を自分に有利に事を進めるため官僚たち文官に金その他の品を渡すことは、諸侯の間ではほとんど通例化していた。


「本当……私たちが言うのもなんだけど、この国もいつのまにか、なんていうか……腐ってきたわよね」


「せめてレクセリア様がいてくれればねえ……」


 侍女の一人が、ほうっとため息をついた。

 レクセリアは、ここ数代、良くて地味……悪く言えば比較的、暗愚な王族の続いたなかで、独特の才能を輝きを放っていた。

 先王ウィクセリス六世も決して愚かな王ではなかったが、諸侯に遠慮して思い切った政策はとれないでいたのだ。

 文官たち腐敗のひどさや諸侯の力の伸張を肌身に染みて知っている侍女たちのなかには、あるいはレクセリアこそが王家の救い主になるか、と見ている者も少なくなかったのである。

 だが、実際にはその希望の星、レクセリアはあっさりとグラワリア王ガイナスの虜囚となってしまっている。


「こうなれば、頼れるのはゼルファナス卿くらいのものね……」


「ゼルファナス卿は、自領でも盗賊たちを死罪に処して、治安を回復したという、案外、苛烈なところを持つおかた……本当に、毎晩毎晩、宴で酒呑んだり賄賂もらったりしてる腐れ官僚どもを、なんとかしてくれないかしら……」


「でも、いまはセムロス伯のほうがどう見ても、有利よ。なにか、起死回生の一打でもない限り、このまま、エルナス公は政争に負けちゃうかも……」


「なに馬鹿なこと言っているのよ! あのエルナス公閣下が、こんなせこい賄賂だの買収だの、娘を淫売替わりに使うようなセムロス伯に負けるわけがないでしょう? あのおかたには、きっとなにか秘策があるのよ……」


 むろん、当のエルナス公ゼルファナス当人は、そんな噂が宮廷内で流れていることは、知るよしもない……こともなかった。

 実際、侍女のなかには、自発的にエルナス公に宮廷内での噂を耳打ちしてくれる「親エルナス公派」とでもよぶべき勢力が存在していたのである。


「それにしても……まさか、ミトゥーリア王妃が私をお召しになるとは、ね」


 青玉宮の壁が青漆喰に塗られた回廊を歩きながら、ゼルファナスが言った。

 傍らには、おつきの小姓のフィニスと、二人のエルナス公家の騎士が控えている。


「フィニス……一体、ミトゥーリア殿下は私にどんなご用があるのだというのだろうね」


 謎めいた闇色の瞳をいたずらっぽく輝かせて、ゼルファナスが言った。


「やはりこう……陛下を、シャルマニアとかいう娘にとられそうで怖いのかな?」


「ですが、それならわざわざ閣下をお呼びになるでしょうか? それはあくまで、陛下のご意向しだいの問題であって……」


「なに、私はセムロス伯と対立している……そのような宮廷人からは目されているようだからね」


 ゼルファナスは苦笑した。


「あるいは、ミトゥーリア妃も私に泣きついてシャルマニア嬢をなんとかしてもらおうという腹なのか、あるいは……」


 やがて、ゼルファナス一行は青玉宮の一隅に辿り着いた。

 ふだん、ミトゥーリアの住まっている後宮には、男であるゼルファナスたちは入ることはできない。

 いま、彼らがいるのは青玉宮の本丸三階の、ふだんはほとんど使われていないような小さな部屋だった。

 要するに、これは一種の密談であるらしい。


「これは……エルナス公閣下」


 ミトゥーリアづきの侍女が、小さく会釈をした。


「部屋のなかで、ミトゥーリア殿下がお待ちです」


 ゼルファナスは軽くうなずき返した。そのまま、侍女が開けてくれた扉のなかへと、足を踏み入れる。

 広間の多い青玉宮の基準からみれば、かなり小振りな部屋である。

 窓には鎧戸がかけられていたが、どのみち南向きのこの窓には陽光もさほど射し込みはしないだろう。

 暖をとるための火鉢が部屋の隅に置かれているが、いささか薄ら寒い部屋である。

 中央には小さな卓があり、その向こうの椅子に、一人の女性が上等な黒テンの毛皮にくるまるようにしていた。

 国王シュタルティスの妹にしてかつての第一王女、現在は第一王妃であるミトゥーリアである。

 兄の国王に似た、柔らかな波打つ黒髪を、腰のあたりに届くまでに長く伸ばしている。

 すらりとした体つきをしているが、豊かな乳房とやわらかに張り出した尻の線はきわめて女性らしい曲線を描いていた。

 瞳の色も黒だが、どこかとろんとした、夢見るような輝きを帯びている。

 いかにもおっとりした、良家のお嬢様といった趣だった。

 だが、よくよく見ればその一見、春風駘蕩ともいえる雰囲気のなかに、かすかな緊張感のようなものがとけ込んでいる。


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